文体というのは大げさだがその謂いは文章の印象というほどの意味である。
ウィキペディアで村上作品の一覧を調べた。「職業としての小説家」を読んで、なかに色々自作のことが出て来たので、どんな作品があって、それぞれ何時頃書いたのかな、と作品の前後を確認しようかな、という気をおこしたわけである。
かれは多作家だ。私の読んだ本はそのごく一部にすぎない。最初に読んだのは数年前馬鹿売れした1Q84だった。このブログでは世間で話題になった本を取り上げるとアクセス数が増えるかなという下衆な考えでベストセラーを、それも社会的なニュースになるような作品を時々取り上げる。
私の癖で、一冊読むとその作家のほかの作品も取り上げる癖がある。それで短編集も含めて3、4冊も取り上げたであろうか。
ウィキペディアによると、風の唄を聞けとか19**のピンボールかコリントゲームというのは長編だそうだが、あれは中編という範疇じゃないかな。で彼の初期中編やカンガルー日和のような短編集は読みやすいし、さらっとしていて読後感がよかった。
それにくらべると長編はどれもごつごつしていて、前期の作品は発展途上の生硬さというかゴツゴツした感じがあった。また後期の1Q84やたざきつくるなどはなんだかおじさんがバイアグラを飲んでがんばっているようなやはりゴツゴツした印象を持ったのである。「職業としての小説家」はもっぱら彼の長編の自作解説だが、長編は「つくる」という意識、「構成する」という意識が強いことが「ゴツゴツ感」を生んでいるのだろう。
ウィキペィアの作品リストを見てその長大なるのに感心して、一番売れたというノルウェイの森を50頁ほど読んだ。この文章は平明である。褒めれば流麗とも言える。のどにするりと入る感じである。それが通俗小説というか大衆小説というか、大変に売れた理由なのかも知れない。
ほかの私が読んだ前期後期の作品は読む(咀嚼する)のに相当でかい歯がいる。例えれば生ゴミ収集車の回転歯のようなごつい恐竜のような歯でばりばり噛み砕かないと喉を通らない(私の場合ですよ)。であるから、これらの作品がおおくの読者に読まれているのがある意味で不思議なのだ。
村上春樹殿、お許しあれ。