本屋でノーベル賞作家モディアノの翻訳で「パリの迷子」(と記憶、正確ではないが)というのを手に取った。私は巻末に解説とか訳者後書きなんかがあると、まずそこを立ち読みする。
このパリの迷子には訳者あとがきがあるが、これがひどい。うっとりしたような感嘆詞の褒め言葉の羅列だ。これでは解説ではないだろう。しかも、おれの(わたしの、だったかな)訳した本はこんなにすごいんだぞ、と言っているようなもので、興ざめである。
訳者とは違う評論家とやらの感嘆詞だけの解説があるが、これも解説になっていない。しかし、訳者ではない解説者のものは、単発でいくら(の原稿料)だからまだ罪はかるい。訳者の自己陶酔はそれで売り上げが増えると思っているのだろう、翻訳だと部数で収入印税が決まるとしたら、後書きはセールス・コピーにすぎない。
勿論、その本は買わなかった。
めくるめく文章なんて言われても行商人のそらぞらしい言葉を聞いているようなものだ。時制の使い方がすごい、なんて翻訳でどう工夫したかを書いたほうがよっぽど気が利いている。
前にも書いたことがあるが、村上春樹訳のチャンドラーの解説は良い方の見本である。解説を読むのが楽しみでもある。そういえば、村上春樹訳の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」には現著者の意向で解説は入れられないと書いてあった。どういういきさつがあったのか、現著者が生きているとこういうケースもあるのだろう。
たしか、村上春樹の文庫本には解説のついているのは無かったような。これも例外的なものだろう。サリンジャーにも文句を言えないな。