穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

職業としての小説家:最終章「物語のあるところ・河合隼雄先生の思い出」

2015-10-12 09:46:09 | 村上春樹

「物語」という言葉は便利安直な言葉で広く流通している言葉かもしれない。そうでもないかも知れない。物語という言葉は躓きの石である。つまり理解できない。説明がない。説明というのは定義でなくても比喩としての説明を含みますが。 

これまでにも物語という語は村上氏の文章に頻出するのだが、理解不能である。村上氏は書く。物語という言葉の理解を共有したのは河合氏のみである。現在に至るまでだれもいない、河合先生以外は。彼の言葉を引用すれば

「物語という言葉は近年よく口にされる様になりました。しかし僕が物語という言葉を口にする時、それをそのままの正確な形で**僕が考えるそのままのかたちで**物理的に総合的に受け止めてくれた人は河合先生以外にはいなかった」

冷静で正確な観察だと思います。わたしなんかに分かる筈もないのであります。滑稽なのは世に雲霞のごとく群れて村上文学をなで回している評論家のひとりとして「分からねえな」と言わないことです。

物語がどういう意味か分からなくて当然ということが分かって一安心であります。そこでこの本を離れて連想法で精神分析(心理療法)についてきわめて素朴な、かつ重要な疑問を一、二述べてみようと思います。

最近本の虫干しをしていて買ったまま目を通していない本を見つけました。岩波文庫シュミッソー作「影をなくした男」です。薄っぺらな文庫本で他の本の間に紛れ込んで忘れていたようです。

あやふやな記憶ですが、河合隼雄氏の著書か、あるいは誰か別の人の本でこの本を精神分析の理解に役立つ文献のように紹介していました。影というのは潜在意識だという主張だったと理解します。それで村上氏の著書に河合隼雄の話が出て来た読みました。この意見は河合氏の独創とも思われない。多分ユングなどの説でありましょう

読んでみると、影を無意識の寓意と捉えることは100パーセント的外れです。この本は軍務の余暇に作者が近隣の子供達におとぎ話を作ってやったものだそうです。

しいて、このメルヘンに理屈をつければ影とは無国籍者となっていた作者にとっての国籍のようなものでしょう。作者はフランスの貴族でフランス革命によって貴族の地位を剥奪されてドイツに逃れ、そこで文筆活動をしていたという。国籍がないと色々不都合がある、ドイツ人に虐められる(在日のように?)、ということを表しているとはとれますが、所詮後付けです。

小説の後半で、古道具屋で買った靴が一歩7里歩ける魔法の靴で自由に国境を跨いで世界中を自由に旅行できる様になるが、これもパスポートなしにどこにでも行ける様になるという願望を表しているととることが出来ます。無理のない解釈です。

ついでに、河合先生のみでなく、すべての精神分析家、それに影響を受けた哲学者、評論家の過ちをもうひとつ。

エディプス・コンプレックスというのが精神分析学の商品の一つですが、彼らの意味では幼児期の経験から息子が母親に対して性愛的欲求を感じることをいう。言うまでもないがこれはソフォクレスのオイデプス(エディプス)王という悲劇から名前をつけている。命名者のフロイトはソフォクレスを読んでいないようだ。そして世界中の追随者も。

ギリシャの原作では、その生い立ちからオイデプス王は父親も母親も知らない。偶然の機会から旅行中に父親を殺し、その妻(つまり自分の母)と結婚して二人の娘を生む。街が悪疫の流行におそわれ、神託をもとめると「けがれ」が原因であるという。

そこで種々手を尽くして、証人を探し調べたらなんと自分の結婚した相手は母親であったことが分かる。王は自分の目をつぶしギリシャ中を放浪する。というスジです。全く知らずに母親と結婚してしまった。そして、事実が判明すると自傷発狂する。母親に性的欲求を持つ等というフロちゃんのいうおぞましいところなど全くない。悲劇ですからね。フロイトの解釈は児童ポルノだ。

大体、精神分析というのは詐欺科学ですが、名前の付け方一つをとっても無学者の集まりです。

 


職業としての小説家 第十回および第十一回

2015-10-12 07:09:35 | 村上春樹

10と11をまとめます。両方とも読者論というか業界論というかマーケット論です。第十回が国内、第十一回が海外となっています。

258頁に国内ではメデイアに登場しないことや、サイン会等をしないことを述べていますが、海外ではわりとこの点でマメなことを弁解している。「ただ外国では公演したり、朗読したりサイン会を開いたりする」・・・「これは日本の作家として責務でやらなければならない」と思っているそうです。はなはだ説得力のない弁解ですね。だれも村上氏に日本の作家を海外で代表してもらいたいとは思っていないのではないですか。利口な彼だ、この点は触れなかった方がよかったのではないでしょうか。

第十一章は海外へ進出して行った経緯をわりと正直に(?)書いている。小さな指摘をひとつ。269頁で小会社とあるのは子会社の誤植ではありませんか。「講談社のアメリカ子会社」ということらしい。それとも小会社がただしいのかな。