難物、といっても色々な意味合いがあるが、の割には半月ほどで一応あげた。
評論家が異口同音に記しているように特異な「手法」で拒絶反応を起こすのが普通らしい。
「意識の流れ」なる流れをくむものらしいが、そんな生易しいものではない。バージニア・ウルフの「ダロウェイ夫人」の比ではない。彼女の場合ナレイターの変更は明瞭である。意識が時間軸を行ったり来たりするだけだ。フォローするのに戸惑わない。
響きと怒り(以下S&Fとする)は時間軸とナレイターが前後左右に飛び交う。しかも改行なしのことも多い。少なくともナレイターを明記しない。どういう効果を狙っているんだろうね、と首を傾げざるをえない。
講談社学芸文庫の翻訳者である高橋正雄氏は解説で「この作品で重要なのは、内容よりも表現形式なのである」と読者を突き放して?いる。したがって逐行的な専門家の注釈表が古来(大げさだな)沢山評論家によって作られているが、それらの注釈表でも今に至るまで解釈がマチマチであるそうだ。
読者は第一部の最初から読むから余計いけない。もっとも小説と言うものは最初から読むように出来ている。私のように最後からとか、ランダム・リーディングをするのはマイノリテイである。
この小説は四章というか四部からなるが、一番手に負えないのが第一部、その次が第二部である。第三部と四部は述者固定でほぼ時系列的な記述である。読者は第三部あたりから読むのがいいだろう。その辺で登場人物たちのおおよその見当をつけてから第一部と第二部をよむと少しはわかりやすいかもしれない。
しかし、先に紹介した高橋氏の解説のようにテーマとか内容については参考になるというか、グッとアピールするものはこの作品にはない。
付け加えると第三部と四部は叙述にひねったところがないだけでなく、小説としても平板である。だから読みやすいというわけである。