腎臓が早朝の活動を始め彼の脳髄に信号を送り始めた。寝返りをうった彼は隣で寝ている固太りの裕子のわき腹にぶつかった。
「アイテテ」と声をあげた。腰部の後ろに筋肉痛が走った。そうか、彼女は泊っていったんだ、と思い出した。昨夜は張り切りすぎたな、と彼は反省した。彼女につられて、つい無理なウルトラCを連発してしまったのだ。
「起きたの」と裕子が言った。
「うん、何時かな」
彼女は「ヨッコラショ」とけだるそうに掛け声をかけて起き上がり、彼の体を跨ぎ越してベッドから飛び降りると窓際に行ってカーテンを引いた。まだ日は出ていない。外は暗い。交通信号の明滅がわずかに室内を明るくしていた。
「まだ五時前だよ」と彼女は伸びをしながら答えた。「あなた、寝言を言うのね」
またか、と彼は不安に思いながら「なんて言ってた」と聞いた。
「うーん、なんだか同じことを繰り返していたみたい」
「そんなに長いこと言っていたのか」
「そうね」
「大きな声で、叫ばなかった」と彼は恐る恐る聞いた。彼は高校生のころ寝言で大声を出して家族を驚かしたことを思い出した。
「そんなことはなかったわね。『おかしいな』とか『どうして迷っちゃったのかな』とか、そうそう『もう二時間も迷っている』とかね」
また定番の夢を見たんだな、と彼は思った。彼は今夜の夢はもう思い出せなかったが、かれがしばしば見る夢がいくつかあって、まったく同じパターンなのだ。その一つに迷子バージョンと言うのがある。
いつも同じ場所と言うか情景で、どうも大きな駅、上野駅の周辺のように思えるところで道に迷う。どこに行こうとしていたのかは目覚めてから考えても分からない。自宅でもなさそうだし、会社でもなさそうだ。とにかく目的地に行こうとして同じところに戻ってきてしまうというバージョンである。上野駅ではなくて、どこか旅行先でホテルに戻ろうとしているのかもしれない。
「きっとその夢を見ていたんだな、と彼はその定番の夢を彼女に説明した。「寝言を言っているとは分からなかった」
「なんだかフロイトの夢判断に出てきそうな話だね。彼ならきっともっともらしい解釈をでっちあげるかもね」と大学の一般教養で心理学を齧った彼女は言った。
「彼ならどう解釈するのかな」
「そうねえ、そのデスティネイションと言うのは人生の目的ととらえるかもね。どうしても自分の人生目的がつかめないで悩んでいるとかね」
「なるほど、説得力があるな。実際おれに当てはまるよ。よくさ、小学校やなんかで将来は何になりたいか、なんて卒業文集に書かせるじゃないか。みんな結構具体的に書くんだよね。だけどオレにはそういうものがなかったな」
「それでなんて書いたの」
「ま、適当にね。本当はそんなものになりたくなくても野球選手だとか、医者だとかさ、皆が書きそうな無難なことを書いとくのさ。ところで裕子は何になりたかったんだい。いいお嫁さんになりたいとかかい」
「馬鹿にしないでよ」と彼女は気色ばんで口を尖らせた。
彼は慌てて言った。「現在もさ、会社を辞めて、これから何をしようかと言うことも決められなくてさ」
「一生の問題と言うわけ」
「そうらしい」
「駄目ねえ」と彼女は決めつけるように言った。「ところで最近はなにを書いているの。小説を書くとか言っていたでしょ」
「小説じゃないよ。ノンフィクションを書こうかと思っていたけど方向転換をしてさ、家伝を書こうかと思っている」
「カデンて」
「家の歴史さ、君に頼んだおやじの写真を見ているうちにい色いろな疑問が湧いてね。秘密に満ちたおやじの前半生を調べようと思うんだ。例の古写真のほかにおやじの遺品に古いメモや書類があってね、意外なことが分かってきたんだ」
「たとえば?」
「おやじのふるさとなんかさ、全く知らなかったんだが中国地方の田舎だとかね。母親のほうの家族のことは前からよく分かっているんだ。だから両親や祖父のこととかね。資料がそろえば家伝をかこうかなとね」
「面白そうだね、見せてよ」
「まだまだ書き出したばかりだから。まとまったら見せるよ」