例によってバーボンのお湯割りで深夜のスイッチオフ作業をしていた。直径10センチほどの500ミリリットル入りのマグカップに2センチほどジャックダニエルを注ぎ60度のお湯で割る。三杯目を飲み終わったころに彼の視界がフラッシュした。「なんだなんだ」と我に返る。視界を共有するのは久しぶりだ。Q駅から徒歩十二分だったかな、と彼は広告の表示を思い出して酔眼をこすった。ナノ秒のフラッシュだったので定かではない。Q駅と言うと江東区にある地下鉄の駅だったはずだ。
彼は反故紙の裏で作ったメモ用紙を引き寄せると、のたくった字でQととりあえずメモした。それ以上の精神作業は今夜は無理だ。はっと気が付くと椅子に座ったまま寝込んでいた。時計を見ると午前二時だ。
翌朝、寝床から這い出ると彼はメモ用紙にあるかろうじて判読できるQと言う字を眺めた。そうだ、今日の一万歩の目的地はきまりだ。例によって場末の定食屋で昼飯を済ませるとQ駅に向かった。この駅にはバリアフリーがない。もっとも初めて来た駅なのであるのかもしれないが、見つからなかった。気の遠くなるほど地下深いところにある駅だ。ようやっとの思いで長い階段を登りきると地表に這い出た。
小一時間ほど、あたりを徘徊した。この辺もすでに高層マンションや大きな工場に囲繞されている。しかし、表から裏通りに入るとまだ古いアパートや木造家屋が点在している。ここかな、と彼はきょろきょろとあたりを見回した。アパートはさびれた外観ですでに無人に打ち捨てられた印象を持っていた。あるいは地上げ屋にすでに買い取られて解体を待っているのかもしれない。前を通ると古い食物の腐ったような饐えた匂いが微かにする。人はおろか鳩一羽はおろか猫一匹も見えない。少し離れたところには木造のしもた屋があった。ここはまだ住人がいる気配だ。これかな、と彼は家の周りを二、三周した。しかし確信がもてない。そのうちに家の二階でカーテンが動いた。どうも上から監視されているらしい。あやしい人間がうろついていると警戒されたのだろう。あるいは執拗な不動産屋や地上げ屋の手先と思われたのかもしれない。うろうろしていると警察に通報されそうだ。
根が不審者面をしている彼は普段でもよく警官に不審尋問をされる。彼は慌ててその街を離れて表通りのファストフード店に入った。注文したブレンドコーヒーは信じられないくらい生ぬるくて、まずかった。彼の席の両隣には若い女性がいて、いずれもパソコンを開いて、薄暗くて新聞も読めない店内でキーボードを叩いていた。ちかごろ流行りの在宅勤務らしい。職業婦人も当節は楽じゃない。
途中で買ったタブロイド判夕刊の毒々しい色インクの太字で印刷された虚仮脅しの見出しだけに目を通すと、彼は相変らずパソコンの画面を仔細らしく睨みつけている女性客を後にして、コーヒーを飲み残して店を出た。再び彼は駅にもどり周辺の看板を丹念に見て回った。フラッシュに出てきた『駅から徒歩十二分云々』という看板は見つからなかった。見落としているのかもしれないが。9800歩達成!