徒労に終わった連日のロケハンでいささか疲労が蓄積していたらしい。昨日は急に冷え込んで雨の降る中、街を長時間うろついた影響がでたらしい。床を離れて十五分後にさむけを体の奥に感じた。一時的なものかと様子を見ているとだんだんひどくなってくる。顔も洗わず朝食の用意もせずに長椅子にうずくまっていると、熱が出てきた。といっても体温計などというものはない。額に手を当てると明らかに熱い。やばいな、と用心して葛根湯を呑んだ。体温計はないが葛根湯はあるのである。
只見大介から、その後連絡があって新宿の喫茶店であった。なにか依頼したことで伝えることがあるということだった。そういうことならそちらの事務所に行くよ、というといやちょっと出る用事もあるのでついでに会いたいというのだ。
新宿の喫茶店で会った。コーヒー一杯千円と言う店で彼の指定だったが、さすがに高い料金だけあってファストフード店とことなり客はすくない。そして客席の間にかなりの間隔がある。只見は時々利用しているらしい。事務所で会う都合がつかない場合とか、あまり人に聞かれたくない交渉などをするときに利用しているらしい。
「先日の依頼の件だけどね、とうもうちにはないようだ。あるかもしれないが俺にはアクセスできなかった」と言いながらビジネスバッグから膨らんだ大型の封筒を取り出した。
「あまり参考にならないだろうが、テレビ局が取材のときにヘリコプターからとった俯瞰写真なんだ。火災とか災害の時に撮影するだろう。知り合いがいてね、雑談の時にその時のビデオがあるというので、別に秘密でもないからとコピーしてくれたんだ。もちろん網羅的ではないよ。君の目的に役に立つとも思えないが、俺が持っていてもしょうがないからな」
「すまないな。それならおたくの事務所に取りに行ったのに」
彼は笑って「うちの会社はうるさくてね。部屋には盗聴器やカメラが設置してあるんだよ。会社の機密漏洩対策だな」
「へえ、監視が厳しいんだな」
「上には警察庁からの天下りが多くてさ。これなんか会社のデータじゃないから問題はないんだけど、こんなデータをやり取りしているとなんだって聞かれるからな。少なくとも会社の業務以外のことをしていたと分かるとまずいのさ」
「それで新宿まで持ってきてくれたのか。すまないな」
彼は笑って顔の前で手を振った。「ところで、君がこんなデータを欲しがる理由はなんなんだ。まだ言えないのか」
大友が困った顔をすると「ま、無理には聞かないよ。どうせ君の個人的な事情なんだろうからな」
「すまんな」
「いや、気にすることはないさ。だた、事情が分かればなにかアドバイスが出来るかもしれない。こっちはそういう問題の専門家だからさ。知恵が出せるかもしれない」
只見に誰か分からない人間に知覚を乗っ取られることがある、その相手を突き止めたいなんて説明できない。頭がおかしくなったと思われる。
「ところで料金はいくらだ」
「何を言っているのだ。そんなものは請求しないよ」
「それは困るな」と彼は呟いた。
「だって、会社のリソースは全然使っていないんだぜ。僕が個人的にちょこっと友人からもらった資料だし、おそらく大して君の役には立たないよ」
「すまないな。わざわざ手間をとらせて」
「何の、何の。久しぶりに会えてうれしかったよ。朋あり、遠方より来る、亦楽しからずや、だよ」と彼は論語の一節を引用してみせた。
そうか、ありがとうと礼を言うと二人は千円コーヒー店を出て別れた。
たしかにそのデータはあまり役に立つものではなかった。相変わらず日課の一万歩散歩をロケハンに充てていたのだが、疲労が蓄積したのと、昨日の悪天候に晒されて風邪をひいたのかもしれない。
一つ確認できたのはその写真に写っているのは都内のごく一部だが、この小数の例から推測するとビルに囲まれた木造のしもた屋は都内に多数まだ存在するようだ。これは歩いていちいち確認していたら膨大な時間がかかるようだと言うことを思い知らされただけであった。