Xが現れるのは夜遅くなってから、ほとんどは十二時過ぎである。どうも知覚と言うものは自我と言う殻を漏れ出してくるらしいな、とあれこれ考えた末に秀夫は仮説をたてた。自我と言う壁がもろくなると漏れ出してくる。人間は動物と違って自意識の塊みたいなものである。自我と言うのは、エゴと言ってもいいが各自の知覚、感情、表象、意思を守っているのかもしれない。動物なんかも進化の度合いに応じて自我が発達してくるものの、人間に比べるとはるかにやわである。特に集団生活をしている種はそうである。例えば鳥などはそうだ。勿論鳴きかわす声によってコミュニケーションを取っていると言われているが、瞬時に危険を察して、ナノ秒単位で一斉に逃避行動をとるが、あれなどは鳴きかわすだけでの伝達では説明できないのではないか。海中で泳ぐ小魚の大群が見事な集団行動を見せてマグロなどの大魚から集団を守るが、あれは水中の音速では説明できない。
そうするってえと、彼は考えを一歩進めた。人間の場合、社会で働いている時間には自我がしっかり機能していないと危ない。自我の殻が緩むのは緊張がほどけた時である。よく世間では言うじゃないか。酒で酔っ払うと口が軽くなるとか。口も軽くなるが自我の殻ももろくなるのだ。会社での昼間の緊張が解けて帰るときにも緊張がゆるむ。一杯途中でやればもっと緩くなる、そして家に帰って風呂にでも入って寝れば意識のレベルは最低になる。そんな時に立花の自我が漏れてくる。これは受け手の自我の殻にも言えることだ。秀夫の自我の防衛機能も夜には低下する。だから相手の漏れ出た知覚も自我の防御陣地をやすやすと突破してくる。そんなところでどうだろう、と彼は結論づけた。
そうすると、プラトンに習って数式で表すとどうなるか。発信側の出力と受信側の能力*、それに週波数能力の三能力の因数がいる。万有能力のように万有能力の方程式は使えないだろう。
*万有能力の場合の重量に相当、周波数は万有引力には概念なし。
#万有引力では表現できない。
&幽霊語である人格
類縁語というか、別名というか人格と言うことばほど、親戚が多い言葉は無い。そして語釈というか定義のない言葉群はない。
たとえば、テレビという商品がある。エアコンと言う商品がある。これには別称と言うものがない。ま、エアコンは(電気)冷房、暖房と言うことばもあるがほとんど使われない。スマホもほかに呼びようがない。ガラケーなら携帯電話と言う別称があるが、ほかに言い方は無い。そして定義しようと思えば、べつに定義する必要も無いのであるが、ずばり定義できる。定義するのもバカバカしいほど言葉にまぎれがない。パソコンも歴史的には、Radio・shackやTandyの8bit、16bitワンボードマイコン、マイコン、ラップトップコンピュータと変遷してきたが今はパソコン以外は通用しないだろう。
人格の類縁語、あるいは同義語と思われるものは多数ある。個性、自己、個人、自我、英語で言えばペルソナ(パーソン)、エゴ、セルフなど。もっとも辞書には定義がある。広辞苑によれば人格とは「道徳的行為の主体としての個人」であるとし、「自己決定的な自律的意思を有し、それ自身が目的自体であるところの個人」とある。前半はともかく後段はなにを言っているのかわからない。
哲学者の言及はもっとばらばらで統一的な見解は無い。現代の心理学でまともな定義があるとも思えない。ヒュームの言葉はちと面白いから引用してみる。「人間とはおもいも及ばない速さで次々に継起する、様々な知覚の束ないし集合にすぎない」
フロイトなんかによるとエゴと言うのは(性的)欲望の屈折した表現となるらしい。
前に、ヘーゲルでまあ、興味を失われずに読めるのは「精神現象学」と「小論理学」くらいなものだと書いた。各論というか具体論に入るとばかばかしくなり興味が持てなくなる。具体論はヘーゲルの奇想を具体的に展開するものだが、ますます現実との齟齬が明瞭となる。これを書いたときには、具体論といっても「法哲学」「歴史哲学」くらいしか読んでいなくて大ぶろしきを広げたわけであった。
最近ヘーゲルの「宗教哲学」を読み始めた。これはどうにか読める。(講談社学術文庫)
勿論翻訳の評価も必要だが、そこまでは手が回らない。
各論と言うものは勿論総論を展開するものだが、総論で開陳した「論理学」の一大奇想が元になっている。その奇想のトリックになじんでいれば、つまり奇想との続きが滑らかならば、と言うことだが、読んでいて納得がいく。もちろん同意はしない。『なるほど、こう持っていくのか』とその手品の手並みを嘆賞出来るということではあるが。
お断りしておくが、現在でも、とくに日本の法曹界ではヘーゲルの「法哲学」は強固な地盤をもっているようだが、それとこれとは別である。
おもうに宗教と哲学とはほぼ同じ内容が対象であるためなのだろう。
秀夫がパソコンを開いて『パンセ』風に気取った随想録を兼ねた日記をつけていると電話がなった。裕子からだった。しばらくしてチャイムがなった。このごろ、彼女は不定期的に来るようになった。そうして部屋をいじくりまわしていく。なんだか部屋の共同所有者になったような有様なのである。
インテリアデザイナー志望で、今はしがないOLの彼女は彼の部屋をいじくりまわしてインテリアデザインの実験台にしている。彼も部屋が片付いていいのでやらせているのだが、困るのはやたらと本の整理をすることである。机の上、床の上に放り出してある本を彼女流の分類方法で整理してくれるのだが、その分類法がまったくわからない。本と言うものは散らかっていても当人は何処にどういう本があって、どこにこれはどうしようもない本で処分しようとしている駄本があるかは、頭の中に入っている、というか、体感的には整理されている。だから必要な本を探すのに手間はかからない。それが彼女の分類法でやられると、あの本は何処かな、と半日探し回ることになる。半日探しても出てこないこともある。そして翌日ひょっこり見つける。しかし彼の部屋の汚れの一番の原因は書籍なのだから、彼女も彼が苦情を言ってもとりあわない。
汚れた食器や流しはピカピカにしてくれるし、隅々まで電気掃除機をかけてくれるし、溜まった郵便物はきちんと整理してくれるので、うっかりして処理しなければならない通知などを見落とすこともなくなった。そういうわけでトータルに判断して彼女の整理に任せてあるのだ。
整理が一段落すると彼女は冷蔵庫から缶ビールを取り出して呷った。唇の周りの泡を手の甲で拭うと彼のそばに来て何をしているの、とパソコンをのぞき込んだ。日記は秘密ではない。もともと、例の暑気あたり後の発作で精神に変調を覚えた後、大学病院でチンピラの医局員にいじくりまわされるのが嫌で、日記を書いて、読み返し、まともかどうか自己診断をしている。だから第三者に見せるのはむしろ求めているのだ。まして彼女は広告の仕事でコピーライターみたなことや、プレスリリースを書いたりもしているから感想を聞くのには適しているだろう。
「フーン、アブサンか」
「飲んだことあるのか」
「無いけど、ある意味で有名な酒だよ。麻薬みたいな効果があるらしい。ボードレールとかピカソなんかが愛飲していたんだよ。いまではフランスでは禁止されているんじゃないかな」
「だけど日本では作っていないだろう。どうせ輸入しかないんだろう。密輸かな」
「いや、そうじゃないでしょう。アブサンと言っても昔のとは成分や製法、原料が違うんじゃないかな。それで飲んでみてどうだった」
「小さなグラスで一杯だけだから別に素敵な効果もなかったな」
あとはお決まりの夜の定食コースとなった。