長時間に及ぶ、ほとんど午後一杯を使っての塵都東京の場末や下町の彷徨的散歩から帰宅した彼は冷蔵庫から缶ビールの中缶を取り出すとマグカップに移し替えて飲んだ。前は帰宅後すぐに、こんなに早い五時前の時間にアルコールを飲むことはなかった。それが今夏の発作からこのかたは長時間市内の喧騒の中をうろついて帰ると微かに興奮状態が後を引いて残ることを自覚した。
以前は、これくらいの散歩の後で微かな興奮状態が残ることは無かったのであるが、やはりあれ以来精神状態が変調をきたしているらしい。この興奮状態の余波は実生活にはまったく影響がない。自覚もしない。それが最近始めた文章を作るという作業を始めてみると、その妨げになるのである。要するに作業に乗って行けないのだ。
それでワインを帰宅後飲んでみたのだが、こいつは飲み始めると途中でやめることが難しい。どうしても一本飲んでしまう。そうすると今度は作文に精神を集中できなくなる。次に日本酒の小さい瓶、あれは二合くらいかな、飲んでみたが、こいつはワイン一本ほどの量はないが、アルコール度数がワインの倍くらいある。それに糖分が多いのか、口の中がベトベトしてくる。作文の前に歯磨きをしてから何てしていたら、感興などどこかに行ってしまう。
それで落ち着いたのが缶ビールの中缶なのだ。こいつはアンバイがいい。ビールのもたらす鎮静作用を実感し確認すると、どれどれとパソコンの蓋を開けた時である。ラジオの男性アナウンサーの声が聞こえた。
『東部軍管区午後六時発表、敵航空機編隊は相模湾上空より帝国に侵入、進路を東にとり帝都に接近中也。京浜東京地区は厳重なる警戒を要す』
彼は驚いた。テレビはつけていない。ラジカセはあるが、CDを聴くだけでラジオを聞いたことは無い。「なんじゃらほい」と彼は思案した。空耳か、幻聴か。そんなオカルト的な馬鹿なことがと超理性的な大友秀夫は即座にその考えを却下した。しかし何なのだ。もしかすると隣の部屋からかな、あのアナウンスの内容は現代のものではないから、昔の録画か映画の音声かもしれない。隣の部屋で再生していたのが薄い壁か、あるいは開け放した窓からベランダを経由して侵入してきたのかもしれない。この答えしかなさそうだ。しかし、その後はまったく音がしない。隣人が音に驚いてボリュームを絞ったか、窓を閉めたのかもしれない。
やれやれとパソコンを起動したときである、ピンポーンとインタフォンがなった。瞬間彼は嫌な気がしたが、インタフォンの画面をみると土屋裕子が花束を抱えている。いやまてよ、そうするとさっきのアナウンスは彼女のストームへの警告だったのか、そんな馬鹿な。