穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

家系図のお礼  

2023-01-12 08:46:00 | 小説みたいなもの

 裕子の立ち去った部屋はシーンと静まり返った。
彼は電話機を引き寄せると叔母に電話した。彼女の協力でルーツ探しの母方の分は詳しすぎるほど調査が終わっていた。母の実家はいわゆる旧氏族の家系だったので郷土史家に頼んで調べてもらい相当詳しく分かったのである。
電話に出た叔母に協力のお礼を言うと叔母は「それでお父さんのほうは分かったの」と聞き返してきた。
「いいえ、それがまるっきり手掛かりがないんですよ。山間の農家らしいが、全く分からない。親類とも父は行き来が無かったようだし、父が子供たちに郷里のことを話すことも全くなかったですからね」
「ふーん、何でも地方では大変な名家だったって聞いていたわよ」
「いわゆる仲人口というやつでしょう」
「そうかしら」
「父は再婚で相当の年齢だったし、随分成功して出世していましたからね。そういっても通用したんでしょう」
「それでは仲人口に騙されたわけ」
「そこまで言うのもどうかと思うけど、ま、よくある話じゃないですか」
「そうかしら、ところでこれからどうするの。調査中止?」
「そうですねえ、一度訪ねてみようとも思ったんですけどね。父がまったく交際を絶っていたのには訳があるんでしょうから、いきなり僕が現れたら田舎の人がどう反応するか、いまいち判断がつかない」
「そうだわねぇ、慎重にしたほうがいいわ。それにさ」と彼女はふと思いついたように言った。
「あんまり昔のことをほじくりだすのもよくないというわね」
「どういうことですか」
「そういうことを言わない?。なんか変なことが起こるとか。昔の霊が呼び起されるとか」
そういえば、大病以来妙なことが増えたようだ。急に橋が渡れなくなったとか、妙な夢をよく見るようになったとか。
「ま、無理をしないことね」と最後に彼女は言った。
電話を切ると、彼はどうしたものかと改めて思案した。父の実家と言うか田舎の親戚を探して訪ねまわるということは慎重にしたほうがよさそうだ。しかし、一度はどういうところなのか見てみたい。鉄道かバスで、と考えたのである。

 


コネクティングルーム

2023-01-12 08:06:24 | 小説みたいなもの

 彼女は冷蔵庫を開けると「卵は切れているのね」と落胆したような声を出した。冷蔵庫には、ある時でもタマゴ、時にミルク、缶ビールくらいしか入っていない。いまはなにも入っていない。青い照明が何もないがらんどうの庫内を冷たく照らしている。
「朝食はどうするの」と彼女は口を尖らせながら彼を見た。
「オートミールがどこかにあるから、それにしようよ」
「だけとミルクがないじゃない」と彼女は指摘した。
「どこかにクリープがまだ残っていたと思う。それを使えば」
「しょうがないな」と言いながらシリアルのパックの中を覗いた「どのくらいいれるの?」
「シリアルは大匙で五杯、クリープは三杯か四杯がいいだろう、勿論好みで調節して」
「ふーん」と彼女は眉を顰めながら呟いた。
「お湯を沸かすのね」
「いや電子レンジでいいよ、一分半」
 彼女がこの間買ってきた自分用のティーパックで紅茶を入れた。「あなたはインスタントコーヒーをスプーン大盛で三杯ね」と彼女は彼の朝のスターター処方を心得て言った。食べ終わると彼女はハンドバッグを取り上げるとあわただしく会社に行くために出て行った。
 しばらく意味もなく、興味もなく、朝のニュースやワイドショーを眺めていたが、『そうだ、俺の夢パターンにはコネクティングルームというのもあったな。最近よく見るようになった』と思い出した。
 ホテルによっては二部屋が内部のドアで行き来できるようになった部屋がある。大家族とか訳ありのカップルが廊下に出ないで行き来できる仕組みの部屋だ。普通のマンションには無いように思うが良く知らない。とにかく夢の中でそういうマンションに住んでいるのだ。勿論二つの部屋は内壁のドアで仕切られている。必要に応じてドアにカギをかければ独立した部屋になりプライバシーは確保される。
 彼の夢ではどこか全く記憶にない棲んだこともない部屋に暮らしているのだ。しかもコネクティングドアがあるということにまったく気づかない。それがある晩、隣の部屋に行けるということに気が付いて不安に襲われる。なぜなら隣の部屋の住人がいつでも自分の部屋に入って来られるからだ。それでぞっとするという夢だ。しかも妙なのはその部屋に住んでいるという現実感は鮮明なのに、思い出そうとしてもそんなマンションに住んだ記憶はないのだ。
 彼女にはさっき話さなかった。その時には思いださなかったからだが、彼女の「フロイト式解釈」でこじつけるとこの夢はなにを意味しているのだろうか。要点はなにかと彼は思案した。つまり、知らない間にプライバシーが侵されているという不安を表しているのか。もっと突っ込めば、なにか他人の考え、霊と言ってよければ、そんなものに憑依される不安を表しているのだろうか。