今日は第五章。これは村上氏がよく読者から小説を書くには何を勉強したらいいか、と聞かれるが、といった所から始まって小説の書き方の心得初級編みたいなことを書いている。
だからフムフムと読んでおけばいい。アメリカ人の書いた小説の書き方みたいな本を1、2冊読んだことがあるが、大体それらの本に書いてあることと通底する。いいかえれば無難な内容である。常識的なことが書いてある。
今日は第五章。これは村上氏がよく読者から小説を書くには何を勉強したらいいか、と聞かれるが、といった所から始まって小説の書き方の心得初級編みたいなことを書いている。
だからフムフムと読んでおけばいい。アメリカ人の書いた小説の書き方みたいな本を1、2冊読んだことがあるが、大体それらの本に書いてあることと通底する。いいかえれば無難な内容である。常識的なことが書いてある。
第四章:オリジリティーとは非コピペの事ではないようだ。コピペの事かと思ったが、村上氏がそんなことを論じる訳がないか。
真似のしようがない独自性といいますかね。世間の一般小説家は知的財産権とかいって、日本ペンクラブでもいつかメンバーの誰かが対策委員会を作るとか記者会見していた記憶があるが、そんなつまらないことではない。
おのずから文体からにじみ出る独自性独創性ということらしい。彼は音楽家の例を引いて書いているが、これなら真似をされるわけがないから、泥棒にびくびくする様に「知的財産権」などとみっともなく騒ぎ立てることもない。模倣者、追随者、引用者は雲霞のごとく出るだろうか、それに一々目くじらをたてる作家は幻滅物だ。
村上はいっているが、オリジナリティーの条件は絶えず自己改革していくことだといっているがその通り。これなら知的財産権だとおびえることもない。模倣者の出ることは勲章と思うくらいの度量がほしい。
大体人間の考えることは似てくる物だよ。純然たるコピペは論外だがね。
オリジナリティーを対コピペだとか、知的財産権などと結びつけて村上氏が主張したらがっかりしたでしょう。
村上春樹さん、ヤクルトも優勝したし、なにかいいことがあるといいですね。
第三章はずばり「文学賞について」です。生々しい話題です。なぜ生々しいかって、いいじゃないですかご本人が「生々しい」とおっしゃっているんですから。そしてこの章のほとんどは芥川賞の話です。二回候補になって村上氏はあがりになったそうですが、ノーベル賞にも「あがり」はあるのかな。
生々しいはなしは本文を読んでいただくとして、芥川賞のレベルについて触れています(65頁)。ご案内の様に芥川賞は年に二回、決まりはないようですが、複数人授賞することが多い。しかも新人である。毎回レベルの高い作品がある訳ではない。村上氏はせいぜい5年に一作くらいいい作品があるだけではないか、と書いています。これでも大アマだと思いますね。10年に一度でもあまいくらいだ。実績を見ると。
それはそれでいい。出版社の営業的色彩の濃いイベントですからね、どうせ。
私なんかが分からないのは、そう言う人たちの作品が毎回結構売れるということなんですね。よっぽど活字に飢えているんですかね、国民は。別に悪いとは言いませんが。
村上氏は作家として励みになるのは芥川賞ではなくて、一定の読者が自分にはあるという感触だと言う。正論です。
そこで村上氏が独自にマーケティングを行っている。これは村上氏の読者だけではなくて、全体として常時小説に親しむ人が国民の5パーセントあると主張していることです。どこかに、マーケティング上の数字があるのかもしれないが、私にはべらぼうに巨大な数字に、つまりあまりにも楽観的すぎる数字に思われます。
600万人になりますからね。そんなコアになる「客」がいるのかな、と首をかしげます。もっとも、本を出せば片っ端からミリオンセラーになる村上氏ならこのくらい楽観的になるのかもしれない。
ほとんどが芥川賞の話なんですが、彼は海外で複数文学賞をもらっていますよね。チェコとイスラエルだったかな。その辺の話は何故書かないのでしょう。「文学賞なんて」と言う割には海外進出のマーケティングの一環として文学賞受賞は積極的に工作(言葉は強すぎるかな)していると聞きますし、要するにくれる物なら何でも拒まず、とくに海外なら大賛成ということなのだろうか。この辺もノンフィクション風に書いて欲しかった。
この本にはかなり海外の話もほかでは多いので不思議に思います。ノーベル賞にしても積極的に授賞を後押しする工作マシーンを持っている(使っている)というし。読者としては興味のあるところではないでしょうか。
マーケティング認識については、上に紹介したコア5%説に加えて、「浮動票(村上氏の表現)」つまり時には本を買おうかなという層は国民の95%(上記参照)の半分(つまり約5000万人)のマーケットがあるというのです。なんとも剛毅な話ではありませんか。
しかも、海外にも日本の何倍ものマーケットがあるというのです。いかにも村上春樹氏らしいですね。
村上春樹さん、ヤクルトの優勝お目出度うございます。
さて第二回(章)は「小説家になった頃」です。30歳で群像の文学賞をとった頃までの簡単な回想です。ふんふんと読んでおけばいいのですが、一つ留意してもいいのは、初めて小説を書いて戸惑ったときに、英文で書いてみたら、なんだかリシャッフルが頭の中でなされて、日本語でも自分の文体の卵が生まれたみたいな経験が書いてあります。
これは汎用性があるというか、だれにでも有効な方法だと思います。全く違う他の言語に触れる(使用する、勉強する)と自国語もうまくなるということは事実のようです。もっとも、これは書き言葉に限定されます。いくら外国語がペラペラしゃべれるようになっても、その人の日本語能力が向上するということは絶対にありません。せいぜい通訳として女の子に尊敬されるくらいでしょう。「読書人」には軽蔑され馬鹿にされるのがおちです。
こういう現象は維新後の日本で広く見られたことです。あるいは漢文が素養の基礎であった其の前の時代でも。昔の人の文章は、自由闊達で非常に力があります。教養形成の過程で外国語(文章)に晒されていた結果と思われます。
最初に本屋で立ち読みをしたときの印象を書きましたが、その時に250頁くらいの本と書きましたが、実際は310頁ほどでした。訂正します。
いま、半分くらいまで読みましたが、彼の小説「制作」の苦労とか長編小説を書くときのノウハウ、手順が出て来ますが、かれの中の認識では小説家として常に向上して来ていると感じているらしい。そう思うのは普通だし、無理もないが、私は彼の作品は初期の物が一番いいと思います。せいぜい「ハードボイルドと世界の終わり」ぐらいまでじゃないですか。
小説家には二種類あって進化型と劣化型があります。芥川龍之介なども明らかに劣化型と私は理解しています。これについては前に書きました。ドストエフスキーもどちらかというと劣化型ではないでしょうか。実質的な処女作「二重人格(ダブル)」が彼の一番の作品と思うし、中期の「罪と罰」や「死の家の記録」そして「虐げられたひとたち」あたりがピークじゃないでしょうか。
白痴あたりはまだ生気があるが、悪霊やカラマーゾフになると「抹香臭さ」が鼻につくんですけどね。
そこでチャンドラーの言葉を贈りましょう。・・・
小説制作のテクニックは年々うまくなるけど、小説の生気はだんだんうしなわれていく(記憶している趣旨を書きました。逐語的な正確さは保証しません)。
もっとも、彼自身の「ロング・グッドバイ」は例外です。
村上氏によると「長年」小説家としてメシを食っている人物を職業的小説家という。そう言う意味ではチャンドラーも永井荷風も職業的小説家である。しかし「生業としている、あるいは、メシを食っている・・という条件を小説だけでメシを食っているという意味を含意するととるなら、チャンドラーも荷風も職業的小説家にはあてはまらない。
村上氏のいう意味は小説執筆だけで生計をたてている、という意味にとれないことがないから、確認するわけである。あえて異をとなえることもないのだが、前にも書いたがチャンドラーは20年間に長編7冊、それも大した部数が売れた訳ではない。これだけで生計をたてるのは困難ではないか。
ビジネスマンからスリラー作家になったチャンドラーにとって収入的には小説は生計の一部を満たしただけではないか、全くの推測である。ビジネスマンといっても『勤め人』の美称ではない。彼は石油販売会社の重役であった。金融、金銭運用の知識もあったに違いない。
永井荷風は銀行員であった。作家になってもその交友関係は財界関係が中心である。また、株等の資産を大規模に運用していたことでも知られている(戦前)。
戦後もブームで作家収入が増えると利殖にせいをだしていた。作家収入がどの程度の比重を占めていたのか。残念ながらその方面の評伝はないので分からないが。
もうひとつ、村上氏が論じている「小説家」というのはどういう種類の小説家なのか。小説家ならエンタメ関連であろうと、純文学であろうと関係なく当てはまると考えているのだろうか。まだ全部読んでいないが、目次を見るとこの点には触れていないようである。すこし鈍感なのではないか。
村上氏自身の作風がジャンルのごった煮を思わせる。芥川賞との関連で話題になるからには一応「純文学」、古くさい言葉だが、なのだろう。また、オカルト、怪奇、ファンタジーなどのエンタメ味もふりかけている。だから小説ならなんでも彼の理屈はあてはまる(勿論体験的理論だが)というつもりなのか。
このあたりははっきりと述べた方が良いのではないか。あえて「職業的」と「非職業的」作家を区別するくらいなら*、シリアス系かエンため系かぐらいは(あるいは両方)明言すべきではないか。
*この区別はきわめて特異で、あるいはユニーク、独創的で村上的である。ジャンルについても一言あるべきだろう。ジャンルに関係ないか、あるかでも。
私の印象では無意識のうちに「純文学」に限った話をしているように見える。
うそか本当か、村上氏が書中で引用しているチャンドラーの手紙ではチャンドラーはノーベル賞をぼろくそにけなしているが、これは少なくともチャンドラーはノーベル賞を意識していたということなのだろうか。この辺ももう少し膨らましてもらえるとよかった。おもしろく、かつ、意外な話題なのでね。
第一回 小説家は寛容な人種なのか
さる小規模リブロで買った。まだ第一刷だった。この間大規模リブロ書店で見た時には第二刷だったが、まだこの書店では第一刷が捌けていないようだ。出版社が変わっている。スイッチ・パブリシングというところだ。素人の私には初めて目にした名前だ。売り方も変わっているし、出版社も変わっている。
この本は12章(回)になっているが、それぞれ雑誌に掲載された短文を集めた物のようだから書評も一つずつやった方がやりやすそうだ。
この本は小説論でもあるが、タイトルにあるように「小説家」論である。それも「職業的小説家論」である。職業的とはなにか。センサスの定義と同様に報酬を得て行う仕事である。それも過去一週間とか一ヶ月ではなくて長い間、一生それで食って行く仕事である。これは村上氏の定義である。
一作で終わる作家は職業作家ではない。最低10年以上小説執筆だけで食っていかなかければならない。村上氏は35年間小説だけで食っている。この立ち位置ははっきりとしていて、それを説明するために「職業的でない小説家」も詳述している。
それは作品の程度の高さではない。一作だけ、あるいは比較的短期間で水準を抜いた複数の作品を発表する人はかなりいる(歴史的に見て、という意味だと思うが)。あくまでも長期間小説だけで生活している「職業的小説家」という人種はいかなるものかを、網羅的にではなく、村上氏の体験に即して記述している。
さて、この章のタイトルであるが、職業的小説家は長い間筆一本で遣って行く苦労を知っているから、異業種からの新規参入者にも寛大であるという。そうなのだろう、芸人が芥川賞を取ってミリオンセラーになっても「やあ、いらっしゃい」と暖かく受け入れるというのである。すごく説得力のある説明だね。どうせすぐに去って行くだろうと思っているから寛大なのである。
この考えは昔からの村上氏のものらしい。どこかで似たようなことを書いていたような。
しかし、この基準でいくと、チャンドラーも永井荷風も「職業的小説家」でなくなる可能性がある。長くなったね。その説明は次回。この「めざまし執筆」は一息で書けるところでしめている。大体A4一枚である。このごろは何か書かないと脳が活性化してこないんだよね。朝の行事みたいになった。