『 ご当地カレーづくりに取り組む大村市の「長崎街道大村宿カレーマップの会」(安永容子会長)が、地元で駆除したイノシシを使った「大村志士カレー」(仮称)を試作、イノシシの肉の有効活用と街おこしとの“一石二猪(ちょ)”を狙っている。 同会は2008年、地元商店主らが組織。昨年春には大村特産の黒田五寸人参(にんじん)を使ったレトルトの「天正少年夢カレー」を発売している。 同市によると、市内ではイノシシを年間約200頭駆除しているものの、農作物の被害は後を絶たず、09年4月からの半年だけで被害額は500万円を超え、08年度1年間の1・8倍に達した。さらに専用の肉処理施設がないため、駆除したイノシシの処分にも困っているのが現状だという。 そこで同会では新たなご当地カレーの具材としてイノシシ肉に着目。1月に同会幹事の山口清史さんの洋食店「ワンスモア」で試食会を開いたところ、牛肉のような柔らかさが好評だった。 「イノシシの荒々しさを出すために肉を煮込みすぎないようにした」と山口さんは言う。安永会長は「将来は同会の12店舗すべてでメニューに加えたい」と意気込んでいる。 』2010/02/10付 西日本新聞朝刊
一石二鳥 を一石二猪としたのは面白いですね。
地元で駆・
http://mblog.excite.co.jp/user/oomurakank/entry/ 試作は、
大村藩の幕末の
志士で長崎県
大村市の偉人として慕われている松林飯山(まつばやしはんざん)(廉之助)の志士に由来して名前が付けられたのでしょうか。 イノシシが取れる地域の人達が、イノシシを食べていたのは不思議なことでは有りません。今のように牛肉や豚肉が豊富に食べられない昔は、冬場の今の時期には、いのししの肉を入れて鍋にして、関西では牡丹鍋と言いますが食べていたのは昔の人の智恵です。冬場しし肉を食べると体が温まると言われています。
暖衣飽食時代の今の日本とは違います。日本の食糧自給率が低い日本の現実を考えて、輸入食材に依存せずに地元とで取れる食材を生かし地産地消を目指す事も大切です。イノシシの肉は独特の匂いと癖が有ると言われていますが、カレーに入れると臭みが消えるのでは無いでしょうか。しし肉は、十分加熱しないと肝炎にもなるそうですから、調理法も考える必要が有ります。しし肉の栄養や豚肉や牛肉に比べの栄養価や優れている利点も栄養学的に研究し分析して是非発表して下さい。「大村志士カレー」が大村市の名物になり、町お越しと、」大村藩の幕末の志士で、長崎県大村市の偉人として慕われている第二の松林飯山さんのような優れた人物が大村市から生まれて欲しいと思います。
※松林飯山・まつばやしはんざん
http://www1.cncm.ne.jp/~seifu/hanzan.htm - 5k から引用させて頂きました。
同じ松林姓の人に松林飯山がいる。我が松林家とはあまり関係はないが、勉強のため、まとめている。ただこの松林家も父、杏鉄が長崎に学んでいる
1-1 飯山の生涯
明治維新の夜明け前、大村藩勤王派の首領として、藩塀の任を尽くした松林飯山は天保10年(
飯山は安政4年
1-3 飯山の最後
慶応3年1月、大村城中で謡初めの式があり、夜になり諸士は退城した。飯山がかみしもの正装で夜9時頃、帰途についたところを長井兵庫ら佐幕派の浪士によって肩先深く切りつけられ、倒れた。このことを契機に大村藩は勤王に傾き、幕府軍に戦いを挑んだ。のちに大村藩が戊辰の役で軍功をとげ、藩主が薩摩、長州、土佐の大藩に伍して、宮中で陛下に感状まで戴いたうらには、松林飯山の永年にわたる五教館での勤王精神の薫陶があったことを忘れてはならない。
1839)2月、筑前早良郡金武村羽根戸村(現在福岡市西区)に生まれた。幼名は駒次郎、いみなは漸之進、字は伯鴻、のちに廉之助と改めた。号は飯山、飯盛山の麓に誕生したからである。飯山は3歳で文を書き、唐詩選の百詩を暗誦し、4歳で千字文、孝経、大学を、5歳で論語を、6歳で孟子を、7歳で詩経を詠み終わり、5歳で既に松、菊、梅の詩も詠んでいる。父、松林杏鉄(きょうてつ)は医師で、若い頃長崎に出て、医業修業に励んでいたが南画が上手で、大村の山紫水明を愛して時々来遊していた。そのうち五教館教授であった片山歓治氏の計らいで、御典医に迎えられ、藩医となった。さらに片山杏鉄は80余歳で病死した。神童駒次郎の噂が広まると、秋月藩の家老から是非、養子にと懇望してきた。これを嫌った杏鉄は、ナカ夫人にも告げず、9歳になる飯山を連れて夜逃げし、陸路を避けて伊万里から便船をを求め、夫人の郷里七釜の沖にある小島の蛎浦の中村家に隠れ住んだ。のちに奉行が蛎浦巡視のとき飯山を見出し、12歳のとき大村藩主に呼び出され、唐詩選の朗読を命じられた。飯山は卷を終えるまで一字も誤らず、堂々と進講し終えたので一同は驚いた。14歳のとき、参勤交替に従って江戸に上がり、学を安積艮斉(あさかこんさい)の塾で磨いたが、3年も経たないうちに数10人の弟子を抜いて主席となったので、大学者の艮斉もこれ以上教えるものはなにもない、と彼の学才をたたえた。 1-2 昌平黄から五教館校長へ
飯山は安政4年(1857)19歳で幕府直轄の昌平黄に入り、天下の秀才と席を同じくして勉学にいそしんだが、飯山の右に出るものはなく、昌平黄の詩文係に抜擢された。21歳のとき大村に帰り御教館の教頭(校長)に任命された。飯山の学風を慕って、北海道松前藩、奥州仙台藩、関東、越前、近畿、中国、九州諸藩から96名の藩士たちが大村に来て学んだ。土佐の岩崎弥太郎もその一人であった。明治以降成功した諸藩の名士のおおくは、この五教館で学んだ人が多い。文久3年(1863)10月に五教館の祭主(校長)に昇進した。
1-3 飯山の最後
慶応3年1月、大村城中で謡初めの式があり、夜になり諸士は退城した。飯山がかみしもの正装で夜9時頃、帰途についたところを長井兵庫ら佐幕派の浪士によって肩先深く切りつけられ、倒れた。このことを契機に大村藩は勤王に傾き、幕府軍に戦いを挑んだ。のちに大村藩が戊辰の役で軍功をとげ、藩主が薩摩、長州、土佐の大藩に伍して、宮中で陛下に感状まで戴いたうらには、松林飯山の永年にわたる五教館での勤王精神の薫陶があったことを忘れてはならない。