『6年前、幻に終わった大阪・ミナミの道頓堀川での水泳大会が、今夏の開催へ向けて再び動き出した。当時は川の水質や安全面での懸念から反対の声が多く、企画した市民団体が「平成22年」を開催目標に延期していた。川を管理する大阪市は「泳いでもらっては困る」と相変わらず難色を示すが、大阪府の橋下徹知事が「任期中に川で泳ぐ」と“公言”していることもあり、市民団体では夢の実現へ向けて市や府にアプローチを始めた。 大会はもともと、道頓堀川の水質浄化のPRを目的に、市民団体「ふるさ都・夢づくり協議会」(同市都島区)が企画。16年8月8日に開催するはずだった。協議会では当時、大会までの日数をカウントダウンする電光掲示板を道頓堀川付近に設置したり、参加者を募るなどしていた。 しかし、大会直前に協議会が市民100人に実施したアンケートで約8割が反対。市が水質などを理由に中止要請したこともあり、やむなく6年後を開催目標として先延ばししていた。 協議会ではあくまで目標だった今夏の開催にこだわる。開催日は当時と同じ8月8日。コースは道頓堀橋(同市中央区)周辺が有力という。前回参加を予定していた約30人に声を掛けるとともに、改めて公募を実施する予定で、100人程度の出場を見込む。須知裕(やす)曠(ひろ)代表は「大阪をアピールする絶好の機会になるし、市民が川に目を向けるきっかけにもなる」と強調する。 道頓堀川は、阪神タイガースが優勝すると熱狂的なファンが飛び込むことで有名だが、泳ぐには適さない。市によると、水質を表すBOD(生物化学的酸素要求量)は、高度経済成長期に比べると改善されたが、「『泳げます』とは言えない。大腸菌の数などを調べていないので、泳いでもらっては困る」という認識だ。 このため、協議会は肌や体調への影響を心配する参加者にウエットスーツを準備することを検討。さらに、知り合いの医師らにボランティア参加を呼びかけ、万全の態勢で臨むという。 協議会では今年に入り、市や府の担当部署と交渉を始めた。橋下知事と平松邦夫市長に参加を依頼することも検討している。須知代表は「たとえ橋下知事らが泳ぐことは無理でも、開会式などに参加してもらうだけで、盛り上がるはず」と期待している。』2010年2月13日(土)15:45
水の都大阪の川の水質浄化は出来ないのでしょうか。まだ夏まで時間が有ります。八百八橋の地名も残る浪速の都、大阪の町起こしに大阪の川を綺麗にし、大阪市内の綺麗な川で、泳げる昔のような大阪の川に戻して欲しいと思います。日本の今の高度な工業技術で出来ない筈は無いと思います。水質浄化の専門メーカーに頼み道頓堀川から手始めに綺麗な川にして見てはどうでしょうか。安井 道頓やすい どうとん、道頓堀の開鑿者で、道頓堀の名前の由来になっています安井 道頓さんも、天上界から見てきつと喜んでくれると思います。水の都・ベニスに負けないように、水の都大阪、浪速の町を流れる川を綺麗にして欲しいと思います。浪速のシンボルの川を、昔のような綺麗な川に「官民一体」の協力で実現して下さい。大阪市内で生まれ育った私の願いです。 市民団体「ふるさ都・夢づくり協議会」の皆さん、6年前の幻に終わった大阪・ミナミの道頓堀川での水泳大会が、豊臣秀吉の辞世の句 「露と落ち 露と消えにし わが身かな 浪花のことは 夢のまた夢 」夢のまた夢に今年はならないように頑張って下さい。夢は、幻に終わらせること無く、大阪市民の皆さんの協力と輪で是非実現させて下さい。
安井道頓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用
安井 道頓(やすい どうとん、天文2年(1533年) - 元和元年5月8日(1615年6月4日))は、道頓堀の開鑿者。
苗字は安井成安(やすい なりやす)で、通称、市右衛門。剃髪後「道頓」と名のる。道頓には、安井氏と成安氏の二つの出自説がある。道頓堀
[編集]1582年ごろ、豊臣秀吉から大坂城の外壕を掘鑿(くつさく)と読み「戦後は、掘削(くっさく)と書かれて来ました。」功労および猫間川河岸整備に対する賞として城南の地を拝領した。1612年、城南の開発には河川の堀鑿が必要と考えた道頓は豊臣家の許可を受け、私財を投じて城南地域中心部の水路(後の道頓堀)の堀鑿に着手した。堀鑿中の1615年、大坂夏の陣に巻き込まれ、豊臣秀吉の遺児、豊臣秀頼に味方して入城、大坂城内で討死した。水路の堀鑿は、道頓の死後、松平忠明の許可を受けて道頓の従兄弟の安井道卜や平野郷の坂上氏の一族の平野藤次(安藤藤次)らが跡を継ぎ、同年11月に完成させた。
成安氏 [編集]なお、道頓は、安井定次の子とされてきたが、安井氏の出身ではなく、平野郷の成安氏出身の成安道頓(なりやす どうどん)ではないかとする見解もある。成安氏は、征夷大将軍の大納言坂上田村麻呂の次男で平野の開発領主となった坂上広野の子孫といわれる平野氏の七名家の一つである。 成安氏から安井氏になったとするこの説に対して、成安氏は摂津国平野郷に住した氏だが、道頓は河内国の出身とされていることから否定する向きもある。しかし、平野郷は、河内国に隣接しており、成安氏の一族である坂上・平野氏は河内国にも支配地を持っていたことから、成安道頓は河内国で生まれた可能性は否定はできない。
郷土史家のなかには、安井氏は本願寺の攻撃を受けた際に多くの一族を失い、定次一人が生き残ったものと思われることから係累がなく、定次に実子ができなかったために、河内国の久宝寺の隣の平野郷の有力者であった成安氏から養子を迎えたとする説を唱える者もおり、また、定次と道頓の関係を甥としている史料もあることから、定次の兄弟が成安氏に養子に入っていたか、姉妹が嫁いでいたなどいろいろな可能性を指摘する郷土史家もいる。しかしながら、道頓の出自については明らかにされていない。
道頓堀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用
安井 道頓(やすい どうとん、天文2年(1533年) - 元和元年5月8日(1615年6月4日))は、道頓堀の開鑿者。
苗字は安井成安(やすい なりやす)で、通称、市右衛門。剃髪後「道頓」と名のる。道頓には、安井氏と成安氏の二つの出自説がある。道頓堀
[編集]1582年ごろ、豊臣秀吉から大坂城の外壕を掘鑿(くつさく)と読み「戦後は、掘削(くっさく)と書かれて来ました。」功労および猫間川河岸整備に対する賞として城南の地を拝領した。1612年、城南の開発には河川の堀鑿が必要と考えた道頓は豊臣家の許可を受け、私財を投じて城南地域中心部の水路(後の道頓堀)の堀鑿に着手した。堀鑿中の1615年、大坂夏の陣に巻き込まれ、豊臣秀吉の遺児、豊臣秀頼に味方して入城、大坂城内で討死した。水路の堀鑿は、道頓の死後、松平忠明の許可を受けて道頓の従兄弟の安井道卜や平野郷の坂上氏の一族の平野藤次(安藤藤次)らが跡を継ぎ、同年11月に完成させた。
成安氏 [編集]なお、道頓は、安井定次の子とされてきたが、安井氏の出身ではなく、平野郷の成安氏出身の成安道頓(なりやす どうどん)ではないかとする見解もある。成安氏は、征夷大将軍の大納言坂上田村麻呂の次男で平野の開発領主となった坂上広野の子孫といわれる平野氏の七名家の一つである。 成安氏から安井氏になったとするこの説に対して、成安氏は摂津国平野郷に住した氏だが、道頓は河内国の出身とされていることから否定する向きもある。しかし、平野郷は、河内国に隣接しており、成安氏の一族である坂上・平野氏は河内国にも支配地を持っていたことから、成安道頓は河内国で生まれた可能性は否定はできない。
郷土史家のなかには、安井氏は本願寺の攻撃を受けた際に多くの一族を失い、定次一人が生き残ったものと思われることから係累がなく、定次に実子ができなかったために、河内国の久宝寺の隣の平野郷の有力者であった成安氏から養子を迎えたとする説を唱える者もおり、また、定次と道頓の関係を甥としている史料もあることから、定次の兄弟が成安氏に養子に入っていたか、姉妹が嫁いでいたなどいろいろな可能性を指摘する郷土史家もいる。しかしながら、道頓の出自については明らかにされていない。
道頓堀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
道頓堀(どうとんぼり)は、大阪府大阪市を流れる木津川と、東横堀川を結ぶ全長約2.5kmの運河、および大阪市中央区の町名である。一部で「とんぼり」と略称される事もあるが定着しておらず、地元では略さずに「どうとんぼり」と表現している。
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概要 [編集]
1612年、安井道頓(成安道頓)・安井道卜(どうぼく)、平野郷の安藤藤次(平野藤次)らが私財を投じて運河開削に着工、1615年に完成した。新堀・南堀川・新川などと呼ばれていたが、松平忠明が道頓の功績を評価し、道頓堀と名づける。1660年代から劇場ができはじめ、中座、角座、竹本座、浪花座、弁天座、朝日座などの劇場で、歌舞伎や人形浄瑠璃が演じられた。日本橋北詰東に安井道頓・道ト紀功碑がある。
現代の道頓堀は、大阪ミナミの繁華街。道頓堀に沿う商店街に飲食店が集中。グリコネオン、キリンプラザ大阪、かに道楽本店、づぼらや(ふぐ料理)、くいだおれ(閉店)、道とん堀大阪支社、道頓堀ホテル、道頓堀極樂商店街(閉館)など、多種多様な看板・建物の店舗があふれている地域である。
道頓堀にかかる戎橋は、2007年11月22日に82年ぶりとなる架け替え工事が完了。また、戎橋から太左衛門橋の両岸に、「とんぼりリバーウォーク」という名称の遊歩道が整備されている。川に面して、ドン・キホーテの楕円形観覧車が設置されている。この観覧車の愛称は、2005年8月31日、公募により「えびすタワー」に決まった。観光船が通い、川側からの出入りが出来るようになり、活性化が期待されている。地元商店会によって催しなども開催されている。また、目の前には太左右衛門橋船着場が設けられ、遊覧船などが発着している。
なお、河川名は、西区との境界でもある阪神高速1号環状線(かつての西横堀川合流点)までが道頓堀川で、それより先は「西道頓堀川」と呼ばれるが、河川名はすべて道頓堀川である。
風物詩 [編集]
- 船乗り込み
- 歌舞伎役者など、道頓堀の芝居小屋で興行を行う際、船に乗り込み道頓堀川の船上にて芝居のPRを行う一種のパレード。毎年の夏の公演の他、襲名披露公演でも実施(近年では中村勘三郎襲名披露等)。
- 春・秋に開かれるアートイベント。
- 道頓堀五座 [編集]
戎橋から東に存在した、浪花座・中座・角座・朝日座・弁天座の五つの劇場のことで、「五つ櫓」とも言う。道頓堀を代表する劇場群で、近代に至るまで、歌舞伎や仁輪加(軽演劇)、人形浄瑠璃などが賑々しく興行された。
昭和初期までにこれらの劇場はすべて松竹の経営に移り、一部は映画館に転向した。第二次世界大戦後、朝日座が東映に売却され大阪東映劇場(後に道頓堀東映と改称)となる。弁天座は文楽座と改称され、人形浄瑠璃の常打劇場となるが、やがて人形浄瑠璃は松竹の手を離れ、朝日座と改称。角座は演芸場に転換、演芸ブームで隆盛を誇ったが、漫才ブーム終了後に失速。いずれも昭和末期に閉鎖された(後に角座は映画館の入った商業ビルとして復活した)。
平成に入りバブル崩壊を受け、松竹は残った中座(松竹新喜劇の本拠地)、浪花座(松竹芸能の本拠地)を相次いで閉鎖し、敷地を売却。ここに、道頓堀五座は事実上消滅した(中座の名前は、跡地に建った商業ビルの名前として復活。なお、解体途中に爆発事故を起こして建物は崩壊し、中座の南側にある法善寺横丁が大打撃を受けた)。現在、松竹芸能の演芸場としてB1角座が営業(2008年5月で閉鎖)しているほか、浪花座跡地の「サミー戎プラザ」内にある「ゑびす座」で演芸興行などが行われている。また、歌舞伎の定期公演などは大阪松竹座で行われているが、道頓堀五座とは別個の劇場である。
道頓堀裁判 [編集]
安井道頓の従弟、安井道卜(どうぼく)の子孫が1965年1月4日、道頓堀の川底の所有権を主張して、大阪地方裁判所に起こした民事裁判。江戸時代の所有権の有効性、目的喪失後の慣行水利権の有無、法律未整備時の所有の概念の有無など、多くの問題を提起した。1976年10月19日に、安井氏の請求を棄却する判決が出された。
水質 [編集]
道頓堀川の水質は、昭和40年代には年平均BOD値が30mg/lを超えるなど極めて悪かったが、大阪市都市環境局の対策もあって、近年ではBOD値が5mg/l以下と大幅に改善している。ハスなどの魚の姿も見られるようになってきた。ただし、DO値が2mg/l程度と低く、大腸菌などの有害な嫌気性細菌が多くおり、人が泳ぐには適さない。また、濁度が高く(水が濁っている)、見た目にも綺麗な河川とは言いがたい。現在、合流式下水道の改善などが図られているため、数年後にはさらに水質が改善される見込みである。
また、2003年にNPO法人「大阪・水かいどう808」が、水質浄化目的で、真珠の母貝のひとつである、イケチョウ貝の養殖を開始した。この貝は、1日にドラム缶1本分の水を浄化できるとされている。2006年1月9日に開貝式があり、真珠も採取された。