『医師不足が言われるなか、国内の三つの私立大学が、医学部新設を目指し、準備を進めていることが分かった。設置認可を国に申請する手続きのため、すでに学内に検討組織を立ち上げた大学もある。医学部新設は30年以上なく、認可されれば1979年以来となる。 医師増員を掲げる民主党は看護コースと病院を持つ大学の医学部新設を後押しするとしており、政権交代で機運が高まったかたちだ。医師養成学部・学科については、自民党政権時代の82年や97年の医学部定員削減の閣議決定を受け、新設の審査は行わない規定になっているが、今後撤廃されるとみられる。設置基準の緩和も進めば、他大学にも動きが広がる可能性がある。 設置を検討しているのは、国際医療福祉大(本校・栃木県大田原市)、北海道医療大(北海道当別町)、聖隷(せいれい)クリストファー大(浜松市)の3大学。いずれも看護や福祉系学部を持ち、大学病院や関連病院もある。 看護や薬学、福祉系の6学部を持つ国際医療福祉大は学内組織で、教員確保策や文部科学省への認可届け出の準備をしている。開設場所は大田原キャンパスなど複数案を検討。入学定員は、現在の設置基準の上限である120人程度を想定している。開設時期は未定だが、取りまとめ役の開原成允大学院長は「早ければ早いほどいい。可能なら2011年度を目指し、地域医療の担い手となる臨床医を養成したい」とする。 北海道医療大も今年1月に学内検討委員会を設けた。やはり地域医療に貢献できる医師の養成を目指し、定員は80人規模を想定。多様な人材を集めるため、学士編入枠も検討中という。小野正道経営企画部長は「これまで道内には私大の医学部がなかった。医療過疎解消に役立つ人材を育てたい」と話した。日本で初めてホスピスを開いた聖隷三方原病院と同グループの聖隷クリストファー大も、理事長がトップの検討委員会を設置。「医学部あるいはメディカルスクール(医師養成大学院)に向けて前向きに考えている」としている。 医学部は79年の琉球大の設置認可以来、新設はない。医師が供給過剰になるとの将来予測や、医療の質低下につながるとする日本医師会の抑制主張を受け、国は80年代初期から入学定員を削減し、全国79校全体でピーク時81年度の8280人から、2007年度には7625人にまで減った。しかし、地方の医師不足が深刻化したため、「骨太の方針2008」などに基づき増員策に転換。10年度の定員は8846人にまで増えた。 ただ、医学部新設には定員80人でも最低200億円弱の建設・設備費用が必要などハードルは多い。また、既存の大学や医療界からは「医師の質が保てない」「医療崩壊をかえって増幅する」との反発もある。22日には全国の大学の医学部長と付属病院長が集まり、医学部新設と定員増に「慎重な対応を求める」請願を政府に提出する予定だ。』 』2010年2月21日3時11分アサヒコム
北海道には、国立の北海道大學医学部と 旭川医科大学と公立の札幌医科大学の3大學あるのみで 、北海道の土地の広さは83452k㎡であり、東京都の土地の広さは2187k㎡です。雪深い北海道の地域医療と僻地での医師不足や医師数の確保を考えると私立の看護、薬学部、歯学部付属病院を持つ北海道医療大学www.iwate-med.ac.jpは、地域医療の貢献に寄与する医療系総合大学として第二の岩手医科大学を目指して頑張って下さい。岩手医科大学は、 岩手県盛岡市内丸19-1 TEL019-651-5111の本学のあゆみを拝見しますと 『創立者三田俊次郎は、岩手県における医療の貧困を憂い、明治30年(1897)に廃止された県立病院を収得して私立岩手病院を創設し、明治34年(1901)には岩手病院を実習場として東北・北海道初の私立岩手医学校を設立しました。
しかし、この岩手医学校も創立11年目の明治45年(1912)、医育改革により廃校の止むなきに至りました。その後、大正末期から全国的に医学専門学校設立の気運が高まり、昭和3年(1928)2月、三田俊次郎の医学教育にかける情熱と努力が認められ、私立岩手医学専門学校が誕生しました。岩手医学専門学校は、三田俊次郎校長時代(1928~1942)から三田定則校長(1942~1950)まで二十有余年続きました。
その後、戦後の教育改革により、昭和22年(1947)6月18日「岩手医科大学」に変更し、初代学長に三田定則が就任しました。さらに昭和26年、学校法人を設立して新制岩手医科大学が発足するに至り、地域医療に密着した私立医科大学としての揺るぎない地位を確立しました。
昭和31年以降、設備拡充の5ヶ年計画・続5ヶ年計画と構想が次々に打ち出され、驚くほどの早さで飛躍的な拡充を実現しました。昭和35年(1960)大学院医学研究科設置、昭和40年(1965)歯学部・教養部設置と、教育・研究の内容を高める環境、条件が充足されました。
昭和40年の歯学部設置は、東北大学歯学部と並んで北日本で最初の歯科医育成機関として認可されたもので、昭和42年の歯学部附属病院開設、昭和58年の大学院歯学研究科開設と、着実にその内容を充実させています。
また、昭和55年(1980)11月、岩手県と共同で岩手県高次救急センターを開設。平成2年(1990)社団法人日本アイソトープ協会と共同で、日本でも数少ない陽電子核医学研究施設サイクロトロンセンターを開設。平成5年(1993)国からの移譲を受けて附属花巻温泉病院を開設。平成9年(1997)2月には、創立60周年記念事業として附属循環器医療センターが竣工。同年5月には循環器医療センターが、全国では3番目の高度先進専門病院として開設しました。
さらに、平成11年(1999)には文部省(現:文部科学省)の私立大学ハイテク・リサーチ・センター整備事業を受け、医学部に先端医療研究センター、歯学部には先進歯科医療研究センターが開設されました。
さらに平成19年(2007)4月には、矢巾新キャンパスの完成にともない、念願の薬学部を開設。医学・歯学・薬学に関する最高の設備と機能を備えるとともに、充実した教育スタッフを擁し、名実ともに屈指の医療系総合大学として新たな歴史の第一歩を踏み出しました。 本学の創立者・三田俊次郎先生は明治30年、県立岩手病院の払い下げを受け、盛岡市内丸に私立岩手病院を発足させた。同時に同病院敷地内に『附属医学講習所』と『産婆看護婦学校』を併設。岩手病院長には、東京帝国大学から杉立義郎を招聘し、医師2名、医学得業士16名、薬剤師3名、産婆15名、看護婦61名などにより運営された。 明治34年には医学講習所の組織を改め、名称を『岩手医学校』とし、文部省より正式に認可を受けた。しかし明治45年には医育制度の改革により、同校は廃止の止むなきに至った。
医学校は廃止されたが、岩手病院は存続して隆盛を窮め、当時の集計を見ると連日患者で溢れていたことが分かる。この岩手病院を舞台に医学校が甦るが、これこそが昭和3年2月文部省より再度の認可を受けた岩手医学専門学校(現岩手医科大学)であった。
新渡戸稲造は、昭和3年8月16日、下北半島の川内を訪ねた。川内は稲造の曾祖父・新渡戸維民が、盛岡藩から追放された土地である。翌17日、恐山を訪ね、旅館に宿泊したが、夜中に下痢症状を起こした。翌日も収まらなかったので、東北本線列車に乗って18日午後遅く、盛岡に着き、岩手病院に入院した。3日後に退院。21日午後1時、盛岡駅発列車に乗り、翌日長野県軽井沢の別荘に着いた。掲載した写真は、この時の入院中のものである。盛岡から軽井沢までは、東京女子医専学生・下斗米ミツさんが付き添った。
岩手医大の前身・岩手医専が開学したのは、昭和3年6月18日である。ちょうど2ヵ月後、岩手医専の前途を確かめるかのように、やがて附属病院となる岩手病院に新渡戸稲造が入院する。
年を経て、新渡戸稲造が留学した世界的医学部を持つ米国ジョンズ・ホプキンズ大学と岩手医大とが、友好大学として結ばれた。若手医師を中心に研究交流を重ねることになったのは、奇しき因縁というべきであろう。 岩手県花巻市出身の童話作家で詩人である宮沢賢治のことは、皆様もよくご存じのことと思います。その賢治の作品のなかに「岩手病院」という詩があります。
1914年(大正3年)年4月、18歳の賢治は、肥厚性鼻炎手術のために岩手病院、すなわち、現在の岩手医科大学附属病院に入院しました。詩は晩年、入院当時のことを回想して書かれたものですが、実はこの岩手病院には、賢治にとって忘れられない思い出がありました。
入院した賢治は、岩手病院の看護婦高橋ミネさんに恋をしてしまいました。賢治の初恋でした。このことは、賢治研究者の間でも知られていますが、恋の相手のミネさんの人となりについては、わずかな情報しかありません。
賢治が岩手病院と縁があったことから、父兄会報の編集委員では、入院中に生まれた賢治の初恋を追って、父兄会報で皆様にお知らせすることにしました。過去の職員録の探索に始まって、盛岡在住の賢治研究者への問い合わせなど、様々な方向から賢治の初恋を探りました。ミネさんの写真でも見つかればいいのだが…。そんな思いで調べましたが、結局新しいことは分かりませんでした。 賢治の初恋について、賢治研究家で「宮澤賢治愛の宇宙」の著書がある牧野立雄さんは「賢治が一方的に思っていただけでしょう。でも両親には、ミネさんと結婚したいとまで言っている。賢治という人はなかなかの自信家ですから、自分一人で結婚するのだと決めていたんですよ」と話しています。同じく研究家の吉見正信さんは「ミネさんは北海道にお嫁に行って、その息子さんが札幌に住んでいます。息子さんに尋ねたところ、賢治については何も聞いていないそうです。恋心はあったのでしょうが、ただ詩のなかで謳っただけではないでしょうか」と分析しています。賢治の初恋やその相手について、もっと詳しく知りたいと思う方も少なくないと思います。しかし、その反対に、せっかくの初恋だからそっとしておきたいという気持ちも抱かせます。岩手医科大学父兄会報ー「啐啄」25より。と向き合う人材の育成拠点が、次代の声に応えます。2007年の春、6年制の薬学部が誕生したエポックを期に医学部・歯学部・薬学部という3学部体制で、あらたな歴史が綴られることになりました。
医師・歯科医師・薬剤師という医療人の育成に向け、それぞれの学部が高い自律性を発揮しています。また、学部の枠を超えて医・歯・薬の連携が深化している点も本学の大きな特徴です。
教育・研究の両面でリレーションが強まり、たゆまぬ協働の精神が具現化。さまざまな視点で培われる成果は、ひろがりと奥行きのある学びに結びつくでしょう。それぞれの分野で専門性を培うとともに多面的な探求へ邁進できる環境は、医療系の総合大学だからこそ実現できます。
さらに、20を超す診療科を擁する附属病院は、臨床での実践に即して学ぶ貴重な場とも位置づけられます。こうして教育力と研究力、そして臨床力が有機的に結びつき、先端的かつ学際的な指向をも育める。岩手医科大学の比類なき魅力は、この点に集約されます。 』とも書かれていますようにこれからは、医学部と薬学部の壁の隔たりを取りいた医療系総合大学の医療技術と薬理の専門性により地域医療に貢献する時代かも分かりません。
本学の目的と使命 には、岩手医科大学の創立者三田俊次郎先生の「医師である前に誠の人間たれ。」本学の目的は、医学教育、歯学教育及び薬学教育を通じて誠の人間を育成するにある。すなわち、まず人としての教養を高め、充分な知識と技術とを修得させ、更に進んでは専門の学理を究め、実地の修練を積み、出でては力を厚生済民に尽くし、入っては真摯な学者として、斯道の進歩発展に貢献させること、これが本学の使命とする所である。(学則/第1章・第1条) 」』
岩手医科大学の創立者三田俊次郎先生の「医師である前に誠の人間たれ。」の精神を地域医療と僻地の医師不足と医師数確保の為生かし、北海道に新しい医学部が認可されるべきです。国立の北海道大学医学部と旭川医科大学と公立の札幌医科大学の国立、公立大学の垣根を越えた相互連携と北海道庁の支援と協力でだ、医学部新設には定員80人でも最低200億円弱の建設・設備費用も解決出来、既存の大学や医療界からは「医師の質が保てない」「医療崩壊をかえって増幅する」との反発にも対処出来るのではないでしょうか。これからは、官民一体と地元の自治体との相互連携協定を結ばないと私立大学医学部の新設は難しいのではないでしょうか。新しい私立の新設医学部創設は、地域社会や地域住民とのグローカル化を目指す必要が有ると思います。地域医療、僻地医療の現実や医師不足も考えて私立大学の新設医学部の認可は考えるべきではないでしょうか。