◼️「17歳/Jeune et Jolie」(2013年・フランス)
監督=フランソワ・オゾン
主演=マリーヌ・ヴァクト ジェラルディン・ペラス フレデリック・ピエロ
澤井信一郎監督は、原田知世主演作「早春物語」のパンフで「17歳が嫌いだ。だから17歳を痛めつけてやろうと思ってこの映画を撮った。」との文章を寄せている。確かに17歳って扱いにくいお年頃。世の中が分かってるでもなく、大人の想像を超えた行動をし、辛辣な言葉も平気で口にする。それは世の東西が変わっても同じ。
フランソワ・オゾン監督の「17歳」は、大人と子供の狭間にいるヒロイン、イザベルがSNSを使って売春を始めるお話だ。親世代や名門校にいる状況への反抗でもなく、差し迫った金銭の必要もない。彼女にとっては"経験"でしかない。何のためにそんなことを。大人目線だと観ていて苦しくなってしまう。ことが発覚してから、周囲の大人たちがどう扱っていいか戸惑う様子がよくわかる。大人の男性と二人にしないように扱われて、「信用してないのね」と言う彼女だが、そりゃお母ちゃんたちも気が気じゃないだろう。そう、イザベルは17歳というモンスター。
原題は「若さと美しさ」。17歳には17歳でしか持ちえない若さと美しさがある。それは代え難いものだとは思うが、ヒロインはそれを利用したのでもあるし、浪費したのでもある。でもそこは彼女にとって自分を自分として、値踏みされるにしても価値を認められる場でもあったのかも。親に従うだけの付き合いとは違う。そして自分は若くて綺麗だからという気持ちが少なくともあったはず。
そんな17歳だから持ち合わせている変な自信。それはクライマックスで打ち砕かれる。ここで登場するシャーロット・ランプリングは、イザベルを許すでも憎むでもない。売春したことを責めることもない。ただ亡くなった夫について述べるだけなのに、ほかの大人とは全然違う力強さを感じさせるのだ。その程度の経験で、男を、そして女であることを知ったつもりになるんじゃないぞ、とでも言ってるような圧力がある。ラストシーンのイザベルは何を思ったのか。明確に示さない余韻がいい。
フランソワ・オゾンがこの映画を撮りたいと思ったのは、17歳の女性にある複雑な気持ちに惹かれたからに違いない。澤井信一郎監督も冒頭に述べた文章の最後で「でも今は17歳に夢中だ」と結んでいる。それはやっぱり男性の目線。このフランス映画の「17歳」は、ゲイであるオゾンの目線で「女の子って難しいよね」と言ってるような気もするのだ。