◼️「TAR/ター/Tar」(2022年・アメリカ)
監督=トッド・フィールド
主演=ケイト・ブランシェット ノエミ・メルラン ニーナ・ホス ジュリアン・グローヴァー
ここ数ヶ月公私共に忙しくて映画館にあまり行けなかった。鬱憤を晴らすべく40日ぶりの映画館詣に選んだのは、ケイト・ブランシェット姐御の新作「TAR/ター」。
同じトッド・フィールド監督作「イン・ザ・ベッドルーム」は、受け止めたものを噛み砕いて感想をまとめるのに苦戦した映画の一つ。今回もそうなのだろうか。いきなりエンドクレジット!?から始まる意外な幕開け。仕事帰りに観る映画じゃなかったかも…との不安を感じながら長いクレジットの間にちょっとだけ眼を閉じた。
ベルリンフィルの指揮者として成功しているリディア・ターのインタビューから映画は始まる。彼女の語る音楽への持論が面白くていきなり引き込まれる。ドキュメンタリー番組を見ているみたいだ。ケイト・ブランシェットのカッコいい面をこれでもかも見せつける。映画はそこから彼女の性格や本性に切り込んでいく。
彼女が学生を相手に講義する場面は、長回しのワンカットで切れ目ない圧巻のマシンガントークが展開される。クラシック音楽は作品に向き合うもの。そこに指揮者の解釈が加わって味わいが変わってくる。バッハの私生活が気に入らないから作品に興味がないと言う男性に、容赦なく厳しい言葉を浴びせかける。自分もベートーベンは苦手だが向き合ってきたぞ、とリディアは言う。同時代にその作家と生きてる訳じゃない。作品は作品じゃないか。昨今世間で騒がれる出来事が頭をチラつく。
娘をいじめた相手にドイツ語で警告を与えるシーンの迫力。さらにレズビアンであるリディアは、オーケストラ内の人事やソリストの選抜にかなり私情が混じる。かつて指導していた若い女性指揮者とのトラブルがストーリーに絡んで、彼女の周囲は次第に騒がしくなっていく。
映画後半は精神的に不安定になっていくリディア。ささいな生活音が気になり始める。誰が触れたのか動き出した棚のメトロノーム、通奏低音のような冷蔵庫の音、呼び出し音のチャイム、ランニング途中にどこからか聞こえる悲鳴、暗い建物の陰から聴こえる水と足音、なくなった大事なオーケストラスコア。それらが彼女の不安な心を激しい行動へと駆り立てる。この描写がかなりホラー映画ぽいので、観ているこちらまで精神的に追い詰めてくるのだ。
ケイト・ブランシェットが出てこないシーンはほぼない。全編出ずっぱりで、主人公のあらゆる感情を表現し尽くす。激しくやり切ったから引退をほのめかす発言すらあったと聞く。個人的にはこれはアカデミー賞獲らせてあげたかったと思う。
クラシック音楽界をとりまく状況や知識が豊かだともっと楽しめるのかもしれない。リディアがレナード・バーンスタインが音楽について語るビデオを見ながら涙を流す場面が印象に強く残った。バーンスタインの語る言葉は彼女にとって指揮者としての心構えの原点。劇中、若いチェリストが「ジャクリーヌ・デュプレの演奏を動画配信サイトで見て感激した」と言うのに、冷ややかな反応を示す。でもこの場面で僕らが見るリディアと何が違うと言うのだろう。奏でたい、音楽を作りあげたいと思うきっかけなんて何だっていいじゃないか。
ベルリンフィルとはまったく違う演奏者と楽曲にリディアが向き合うことになるラストシーン。彼女の表情を見ることはできず、受け取り方は人それぞれだろう。僕はこれを前向きな幕切れだと理解したい。バーンスタインの言葉で原点に帰った彼女の第一歩だと。