◾️「哀れなるものたち/The Poor Things」(2023年・イギリス)
監督=ヨルゴス・ランティモス
主演=エマ・ストーン ウィレム・デフォー マーク・ラファロ ラミー・ユセフ
死者を蘇らせる物語。映画史上、多くのマッドサイエンティストたちの手で何人もの死者が息を吹き返した。「フランケンシュタイン」は特に興味があって、オリジナル、関連作、リメイク、多くの派生作品を観まくった時期があった。「ペットセメタリー」や「デッドリー・フレンド」でも死者は蘇った。それらは不幸な結末と、創造主に愛されないモンスターの悲しみがあった。公開前の「哀れなるものたち」のあらすじと作品の噂を聞いて、こうした作品の系譜なのだろうと勝手に思い込んでいた。
ところがどっこい。確かに怪奇趣味的な物語の導入だし、風変わりなキャラクター、部屋の造形、不思議な街並みに彩られてはいるが、ストーリーの主軸は普遍的な成長物語だ。亡くなった大人の女性に胎児の脳が移植された主人公ベラ。初めは歩く動きすらぎこちない彼女だが、映画が進むにつれて急速に知識を得て、経験を積み、大人の女性へと変わっていく様子から目が離せない。
性にまつわるエピソードが過剰に多い印象を受ける。しかし性への興味は成長していく過程で誰しもが夢中になってしまうものではある。またその快感を自分で発見して言葉にする喜びがストレートに表現されて(熱烈ジャンプ🤣)、おかしいけれどうなづけるところ。
さらに、ベラが船旅で老婦人(ドイツの名女優ハンナ・シグラ)に出会って社会に対する知識欲が旺盛になり、世界の現実を知りたいと望むようになる変化。その大きな前振りとなっている。昔読んだ山田詠美の小説に出てくる、「セックスはお菓子、愛はパンなのよ、ベイビー」って台詞を思い出した。ベラはお菓子を卒業しつつある時期に近づいていたのか。老婦人がその年齢での性に触れるサラッとした台詞は見事だった。
本作が面白いのは、主人公の成長物語だけで終わらないところ。ベラは最終的に自分のルーツに触れることになる。その流れは実にスリリング。また、科学者としての立場に固執していたウィレム・デフォーが愛を知るまでの物語でもある。「フランケンシュタイン」原典は、創造したのに愛をくれなかった者へのモンスターの怒りと孤独という悲劇。その原典に着想を得た本作は、その先の成長と愛に触れようとした冒険物語。
エマ・ストーンが姿勢と喋りと歩き方でベラの成長を演じ分けているのは、本当に見事。どういうアプローチをしてこの演技にたどり着いたのだろう。圧倒された。刺激的な会話と映像、一度聴いたら気になって仕方ないピッチが揺れ動く音楽。センスのいいタイトルバックと、絵画を見ているような美しいエンドロール。万人に勧められる映画ではないけれど、他では味わえない魅力がある。
ところがどっこい。確かに怪奇趣味的な物語の導入だし、風変わりなキャラクター、部屋の造形、不思議な街並みに彩られてはいるが、ストーリーの主軸は普遍的な成長物語だ。亡くなった大人の女性に胎児の脳が移植された主人公ベラ。初めは歩く動きすらぎこちない彼女だが、映画が進むにつれて急速に知識を得て、経験を積み、大人の女性へと変わっていく様子から目が離せない。
性にまつわるエピソードが過剰に多い印象を受ける。しかし性への興味は成長していく過程で誰しもが夢中になってしまうものではある。またその快感を自分で発見して言葉にする喜びがストレートに表現されて(熱烈ジャンプ🤣)、おかしいけれどうなづけるところ。
さらに、ベラが船旅で老婦人(ドイツの名女優ハンナ・シグラ)に出会って社会に対する知識欲が旺盛になり、世界の現実を知りたいと望むようになる変化。その大きな前振りとなっている。昔読んだ山田詠美の小説に出てくる、「セックスはお菓子、愛はパンなのよ、ベイビー」って台詞を思い出した。ベラはお菓子を卒業しつつある時期に近づいていたのか。老婦人がその年齢での性に触れるサラッとした台詞は見事だった。
本作が面白いのは、主人公の成長物語だけで終わらないところ。ベラは最終的に自分のルーツに触れることになる。その流れは実にスリリング。また、科学者としての立場に固執していたウィレム・デフォーが愛を知るまでの物語でもある。「フランケンシュタイン」原典は、創造したのに愛をくれなかった者へのモンスターの怒りと孤独という悲劇。その原典に着想を得た本作は、その先の成長と愛に触れようとした冒険物語。
エマ・ストーンが姿勢と喋りと歩き方でベラの成長を演じ分けているのは、本当に見事。どういうアプローチをしてこの演技にたどり着いたのだろう。圧倒された。刺激的な会話と映像、一度聴いたら気になって仕方ないピッチが揺れ動く音楽。センスのいいタイトルバックと、絵画を見ているような美しいエンドロール。万人に勧められる映画ではないけれど、他では味わえない魅力がある。