ステージおきたま

無農薬百姓33年
舞台作り続けて22年
がむしゃら走り6年
コントとランとご飯パンにうつつを抜かす老いの輝き

難解!そうかい?

2015-08-04 10:56:01 | 演劇

 いきなりダジャレのタイトルで始まるってのもたまにはいいだろ。

 『お遍路颪』終わって、帰り際のお客さんから、難しかったね、と声をかけられた。うん、そうだ、オーソドックスな劇作法じゃなかったのはたしかだ。これまでの菜の花座オリジナルからすると分かり易くもないければ、ほんわか幸せになれる舞台でもなかった。描かれたのは民衆蜂起だったし、貫くテーマは男と女のどろどろだった。夏の宵、愉快に笑って過ごしたいと思って来た人たちには、思いっきりのけたぐりだったろう。

 以前、やや難解な既成作品を取り上げたとき、菜の花座は難しい!って評判が広がりかかったことがあって、それはうまくない、もっと地域に愛される劇団に成らねばと、以降、私が書く時は、ほんわか笑いほろりと涙の路線で行くようにした。まっ、そういう軽いものしか書けないってことでもあるわけなんだが。それはそれで、ダメなことでも2流ってことでもないのだが、分かり易い舞台作りが必ずしも観客動員に結びつかなかった。

 そんなら何も観客受けのいいものばかり作らなくてもいいじゃないか。もっと、書きたいもの、作りたい舞台を創ってもいいじゃないか。歳も歳なんだから、やりたいことやっちまった方がいいさ、と、老人の独りよがりの開き直り、封印してきた我が内なる情念をさらけ出しちまおうかい。で、『山棲』それから今回の『お遍路颪』となった。

 どうせ羽目を外したもの作るなら、時間の流れや配役の限定も取っ払って、今と明治が行き違い、女が男を演じ、一瞬にして別人格に変わってしまうなんて突拍子のないものにしよう。テレビドラマや映画じゃお目に掛からない技法だが、演劇の世界では取り立てて斬新というわけでもない。極めて限定的な演劇という表現故に、こんな思い切った描き方が許されるし、効果的でもある。ある意味、まさしく演劇的な表現法でもあるのだ。が、ここいらの人たちには、見慣れぬ芝居、分けのわからぬ作品と見えてしまうのだ。

 6月の全国大会で仙台の劇団「まんざら」が上演したのは、死者が天使?となって現世に舞い降りて、家族の生涯をたどっていく作品だった。死者が舞い戻って現実と関わるという方法は、決して真新しいものでも難解なものでもない、演劇と長く関わっている者にとっては、ある種定番とも言えるものなのだが、その作品に出演したシニアからは、非現実的で判りづらかったでしょ?って話しかけられ、返答に困ってしまった。人は見慣れた舞台から芝居ってものを思い描くってことだ。

 ストーリー展開や時間軸をねじ曲げてみると、思いがけない感覚世界が広がる。例えば、今回のお遍路たちの存在、秩父蜂起の血縁者でもあれば、当の困民党員でもあり、最後の看取りのシーンでは、観音様が下されたお使いのようにも見なすことができる。その間を自由に行き来することで、不思議な世界が開けるし、想像や思念の翼も大きく広がる。こういう見方ができるようになるには、こんな文法を無視した作品に数多く触れるしかない。で、おこがましい言い分だが、菜の花座のファンの方たちにはそんな鑑賞力を培っていただきたいのだ。

 軽く楽しい舞台をゆったり味わう、と同時に、難解?な作品が醸し出す不可解さにも好奇の心をときめかす、そんな観客に囲まれて芝居作りができる、そんな町であってほしいなぁ、川西は。

コメント
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