ステージおきたま

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役者変様!『お遍路颪』

2015-08-05 08:35:55 | 演劇

 菜の花座公演『お遍路颪』総括第3弾。役者と演技について書かないとね。

 日頃馴染みの感情とは縁遠い世界、嫉妬に悶え死者となっても裏切った妻を狂おしく追求する男、夫への尽きぬ愛とは裏腹に行きずりの男に身をゆだね続ける女、弄んだ男に復讐の炎を滾らせる女、戦いを選んだ夫への恨みと誇り、不倫の負い目から戦いに身を投じた男との通い合う心を語る女、役者たちは戸惑い、悩み、苦しみ役作りに挑んだ。

 作者として、演出として一番に要求したのは、ありきたりの感情でそれらしく誤魔化すな!ってことだった。若手と言ってもすでに10年近く舞台に上がっている役者たち、そこそこに演じるくらいの技量は積み上げている。悲しみの表現ならこう、怒りなら、これで、と自分の中にあるカードから適当に引き出してきて演じることができる。まず、このパターン化した持ちネタを捨てろ!と強く迫った。

 こういう演技は、ワンパターンで、演技を役に寄り添わすというより、役を強引に自分の演技に合わせてしまう。役者の心が動いていないのに、表面それっぽく見せる演技。うわべをつくろう演技。そろそろそこから抜けだそう、それが演出の願いだった。

 感情を動かせ!心を震わせろ!それが役作りのスタートだ。今更だよなぁ、こんなこと。あったり前の話しだ。役の人物になり切るってことは、まずその感情を生きるってことのはずだから。それなのに、表情の作り方とか、せりふの言い回しとか、身ごなしとかに関心が向かってしまう。どうやったら悲しげに見えるか、視線は?顔の傾げ方は?口元の表情は?いつの間にかすべては技術に収束し、それが演技だと勘違いしてしまう。上っ面の演技論だ。

 これまでの菜の花座作品なら、それでも巧みにやればOKだった。笑いが中心だったり、心打つ情景も、よくある話しだったりしたからだ。いや、本当は違うんだが。要するに、お客さんとも馴れ合って芝居してたってことなんだ。だが、今回の『お遍路颪』は違う。人間のぎりぎり研ぎ澄まされた感情世界と渡り合う。心が動かさず技でどうこうしようとしても、空々しいばかりなのだ。

 厳しく追いつめた。心を動かすこと。慣れ親しんだ表現を覆すこと。自分流から脱すること。新しい表現と感情世界を見いだすこと。

 培ってきた自己を否定することほど辛いことはない。自信を打ち砕かれることほど、残酷なことはない。黙殺され、罵倒され、何度も何度も繰り返して、どうやら心を動かすすべを手にしたようだ。稽古が始まった頃とは雲泥の深さに達していた。せりふの一声、眼差しの鋭さに周囲を圧倒する力が宿っていた。

 まだまだ多彩で複雑な感情を追体験する力量には達していない。感情をコントロールする力も必要だ。もっともっと人間を他者を学ばねばならない。それでも、感情を動かし、心を震わせることが、演じることの出発点だという意識だけは身体に染みついたように思う。この一歩、菜の花座の成長を大きく後押ししてくれることだろう。

 

 

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