自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

付加価値を捨てる

2013年01月15日 | 自然治癒力セラピー協会のセラピー

愛、”I”(アイ)、1(壱)の 徒然なる所感       平成25年1月15日

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私たちの魂が 白紙で生まれたどうか?

そのことは、去年11月3日のブログ、

”肉体に属する欲望(後)”で書かせていただいた。

そして、そうではないだろうと

いう仮説をたてた。

魂(アートマ)は白紙のように純粋で、

穢れはない。

でも、私たちの心には、この世に

生まれてきた以上、負荷価値があるはずだ

その清算が今生の生の目的であるのならば 

”アートマ+清算すべき負荷の心情” 

を持って生まれてくる。

 

だから、白紙という意味は、

負荷価値はあっても、付加価値がゼロである”

という意味だろう。

この場合、付加価値とは、地球人生で必要な

”無形・有形財産”であり、”資質”である。

 

成長する過程の中、家庭や学校で 

生きていくために必要な価値観を教えられる。

教育や人格形成などの、付加価値を

つけていくことが学生の本分だと

暗黙の了解がある。

青年期・壮年期の付加価値は、

社会的貢献度・地位・名声・賞与などが 

付加価値にあたる。

学者や専門家の研究成果も付加価値だろう。 

道徳的・宗教的・哲学的な学びも

付加価値としてその人の精神生活を

豊かにする。

 

しかし、晩年に 人は、二つの道に

分かれていく。

自分の有形無形の付加価値に固執する道と、

社会的・物質的負荷価値を捨てていきたい

と願う道。

 

築いてきた社会的肩書を外してしまったら、

自分の価値が下がり、

生きがいがなくなると感じる人は 

それに、固執する道を往々にして選ぶだろう。

一方、本来の自分を取り戻したいと 

強く願う人にとっては、大方の

社会的付加価値は 

魂の足かせに過ぎないことに気が付く。 

それをはずせば、心が軽くなることを

知っているからだ。

かなり前に、タイ国で有名なシルク専門店

を立ち上げた、ジム・トムプソン氏は、

大成功を収めたにもかかわらず、晩年、

失踪して行方知らずとなった。

もしかしたら、彼は後者の道を選んだ

のかもしれない。

 

あるいは、双方の道を兼ね備えた晩年

の目標を持つこともあるかもしれない。

どちらが良い悪いとは判断はできない。

それぞれの道だ。

 

それにも当てはまらない第三の道もある。

死ぬまで、そうした二つの方向性を

超越して、誰かのお役にたとうとする

現役の道だ。

最後まで社会のため人のため自分の

残されたエネルギーを使い切れる人もいる。

 

産声を上げたときの 生まれたばかりの

自分を、1(いち)とする。

付加価値を単位を上げるという意味で 

0ゼロ とする。

付加価値が増えると、ゼロが増えるので、

単位はゼロを一つつけることに増えていく。 

1、10、100 というように。

社会人となり報酬をもらい、

物質的な豊かさを構築すればゼロは増える。

女性はどうだろう?

職業を持っている人、そうでない人、

家庭人になっても、夫の付加価値を

共有するのだから、夫の付加価値と

比例するだろう。

こうして、10、100、

1000、10000、と単位が上がれば

上がるほど、

社会的評価・社会的信用などと、

比例していくように、錯覚しがちだ。

単位の上昇は、物質的豊かさに

比例している場合が多い。

 

しかし、肉体的社会的の隆盛時の山を

超えると、誰でも付加価値は減っていく。 

肉体的衰えや慢性疾患などとの闘病、

そして、精神力・意欲の減退、

それにともなう希望や夢の喪失

で、衰えた意識に追い打ちをかける。

退職して これまでの、地位を失い、

親を失い、友人を失い、そのたびごとに、

付加価値のゼロは、一つ一つ、静かに、

消えていくだろう。  

 

そこで 人は生きてきた長い苦闘の

道のりを振り返る。 

そして気が付くのだ。

 ”人生で積み上げていった付加価値の

真価は何っだんだろう?”

そして、

”死後、物質的付加価値は あの世に

持ち越せないが、生きていたという証は?

 

この肉体を脱ぎ捨てる瞬間、何が

残るのだろう?

唯一(ゆいつ)残るのは、赤ちゃんの

時に持っていた数字の、

1(いち)=アハムカーラ=肉体意識 

なのだろうか?

 

生まれるのも裸一貫 死ぬのも、

裸一貫。  

それなのに、死ぬときは、その 

裸の肉体 ですら燃やされ、灰になる。

肉体に所属する、アハムカーラ

(この世界でのアイデンティティーを保つ資質)

も燃やされる。

”何の誰べえ” という名前

(アハムカーラの自我意識)は消える。

こうして、燃やされたあとは 

自分はゼロになってしまうのだろうか?

  

どんなにゼロが多く並んでいても、

1(いち)があっての、整数である。

1(いち)が無ければ、ゼロの羅列に

過ぎない。

どんなに大きな単位に膨れ上がった

数値でも、

1(いち)が 物質的自分である、

アハムカーラと等しいと思っていれば、

肉体の荼毘とともに、燃え上がり

付加価値も同時にゼロに帰して

しまうだろう。

なぜなら、アハムカーラは肉体に

属する資質だから。

 

しかし、1(壱)はアートマだと

知っている人の場合は異なる。

その人にとって、死 はある意味で出発だ。 

最後に残る、1(壱) こそ、

自分の本質、心(アートマ)の資質

であることを、

知っている人にとっては。

肉体が死を迎えても、アートマの1 

は確実に残るからだ。

それは永遠の魂に所属しているからだ。

 

肉体に属する欲求は無限でとどまる

ことを知らない。 

持っても持ってもほしくなる。

しかも、夢幻(むげん)でもある。 

どんなにたくさん手にいれても、

結局、肉体を去るときに、夢のよう

儚く空中に分解してしまう。

  

自分の1(いち) は、英語の I(私) 

なのかもしれない。

生まれてきたときから、

肉体的意識の I (私)が、存在していた。

死を迎える時、I は、肉体の死と

同時に消滅してしまう。

わたし、私、と言い続けてきた、

その私の実相とは?実態とは?

 

I は、象形文字的(秀真文字)に

言えば、 をあらわす。

そういえば、私達の命の本質は、

 である。 

I (アイ=私)が、秀真文字の 光 

のエネルギーを意味しているのは 

偶然なのだろうか?

さらに、”私” を、英語では 

”アイ” という。 

愛=アイ、I (私)=愛、

I(私)=光、 愛=光 

あるという、真理が、こんなところにも、

偶然を装って隠れていた。

 

 

ヴィーナスの誕生* 

愛の女神は 永遠の若さを誇る。 

なぜなら、愛 は、生命の本質だから、

肉体を超え、執着の呪縛を解く。

 

 

                 

 

 

 

 

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