自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

カジュラホ寺院への誘い

2013年01月13日 | 神秘と神の大地”インドの香り”

情感とアートマの間で              平成25年1月13日

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カジュラーホーKhajuraho)は、インドマディヤ・プラデーシュ州の小さな村。

首都デリーから南東に620kmの位置にある。

ファイル:Khajuraho5.jpg  

ヴィシュヴァナータ寺院

カジュラーホーで最も著名な寺院のひとつである

西グループに位置しており、1002年に建設

東西に連なるシカラは、東から西へ向かって段々に高くなるように造られている。

シカラは、聖室や拝堂の上面の石柱によって支えられ、

シカラの下のバルコニーと呼ばれる空間がひろがる。

これによって、空中に浮かんでいるような印象を与える。

主としてシカラの下部に男女の神々や空想上、神話上の生き物、天女、

ミトゥナと呼ばれる抱き合ったり性交しているような彫像が刻まれている。

ファイル:Khajuraho tempel india.jpg

                       ラマクリシュナ寺院正面

すでに成長しつつあるものを支えてやり
それに滋養を与えて、手を貸すことだ


指示を与えてもいけないし
理想像を与えてもいけない


彼らに何が正しく、何が間違っているかを
教えてはならない
彼らに、それを経験させるようにしなさい

 

この言葉は 誰が主語か?

母親から子供へ、夫から妻へ、教師から生徒へ、先輩から後輩へ、当てはまるかもしれない。

 

”私”から”私”へ、というのはどうだろう?

私がアートマであることは、いかなるときも信じたい。 

私がそうであると、魂でわかっていても、肉体を持つ身には、自分自身という意識が先行する。

自分自身を守りたい、自分の家族を、自分の財産を、自分の持てるものを、

自分自身は当たり前のように主張する。

自分自身が愛欲を感じ、情熱を感じ、それを基調に行動すること。それが、何故悪い?

と アートマに聞く。

 

正しい、間違い、その定義は簡単だ。 

自分に心地良ければ、正しいと感じるし、自分に心地悪ければ、間違いと感じる。

ただし、肉体に属する自分(感情に惑わされる自分) と 

本質の自分 (宇宙の気に同調できる自分)

が感じる、快適さは、異なる。

肉体の心地よさと、心の快適さ、それは必ずしも比例しない。

 

 

その” 快適さのずれ”は 体験 しなければ、わからない。

教理を押し付けてもわからない。

人はどのみち、アートマに返る。 

それが自分の故郷なのだから。 

自分の本来の居場所なのだから。

 

相手を信じて、時としては、自分を信じて、

時の経過を待たなければならないこともあるだろう。

性欲や鬱屈した精神によって引き起こされる感情や事件も、

社会が原因だとすれば、社会に腹がたつ。

自分の魂が 自ら選んだ、修羅場であり、研修場だと信じれば、 

角度を変えてみることができ、

心も比較的穏やかに対処できるから、

何らかの解決方法の糸口が見出されるだろう。

 

体験して味わいながら、試行錯誤のうちに糸口を見出していけばよい。

・・・・  と私は思う。

 

カジュラホ寺院にある、これらの壁の彫刻の数々。

それを観て”いやらしい”と目を背ける人はあまりいないだろう。

むしろ、鑑賞してみると、それぞれの彫刻のモチーフの中の 

どれかが自分に当てはまるかもしれない。

恥ずかしそうにしている人、恥ずかしくて目を覆い隠し、

わずかな指の隙間から、行為を観ている人、

喜び、情熱、征服、充足、満足、そして、そのあとに何が来るのか?

それが、この彫刻群の私たちへの問いかけである。

 

カジュラホの寺院に入る前に、

神はそれらの壁彫刻を見せ、参拝に来た人々に提言する。

まず、彫刻に示されている、私たちの本能を、受け入れる事を。

肉体と生命に備わった、それらの欲望を受容することを意味する。

欲望ではなく、それは生命の欲する望みであり、性欲は本来、

聖なる欲望であることへの自覚である。

 

それから、人々は神々の教義を聞く。

秩序とモラル。

それが、殺すなかれ、姦淫するな、という話になる。 それを知っていても、

体と頭の統合はすぐには一致しがたい。 

だから、人は、自己の不条理を受け入れていくための、数々の体験を踏む。

それでしか、本物を見出す目が開けないからだ。

 

体験を踏む。 踏んで味わい学び、進む。

経験の中に、それがどんな経験であっても、修行の道がある。

 

それを、自分でそれぞれ気が付けばいいだけの話なのだ。

兎でも、亀でも、ゴールに向かっていれば、歩み続けれていれば、 いつか

必ず、そこに到達する。

 

 

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