楽にスピリチュアルな生き方を受け入れられる考え方があるかも・・・
2017・10・17
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ある会合でこんな話しで盛り上がった。
それは ’スピリチュアリティ’という言葉の日本人の
受け止め方についてだった。
この言葉をあまり、公な場では、使いたくないと
考える理由は、日本人にはこの言葉はあまり、
好感度をもって受け取られていない文化的背景
にあると、T大学のM先生は考えていらした。
アメリカM大学の先生、H先生も、その話に加わって、
“それは、テレビ番組で、霊能者と称する人がこの言葉を
用いて、一種の神秘主義的というか、オカルト的な
意味合いで視聴者が解釈し、そのままそのニュアンスが
全般に広がっていった感がある“
と 賛同して、 本来のスピリチュアルの意味合いが
日本の社会では一般的に理解されていない現状を認めた。
私自身はその番組はインドで暮らしていたころだったので、
見たことは無かった。
少なくても、あちらではむしろ、この言葉は、物質至上主義
と対照的な意味合いで使われ、肯定的なニュアンスを
含んでいたように思う。
印度の太古より、現代に通じる、ヒマラヤのヨギ達に象徴される、
スピリチュアリティ―を追及する求道者たちの、この言葉
に対する反応はとても深いものがある。
今日は少しそれを皆様にご紹介しようと思う。
Shrirum Sharma (シャルマ)Achariya は、
現代のヨギの一人ある。
ヒマラヤで修行し、その麓の地、ガンジス川の岸辺に
アシュラム(道場)を開き、多くの修行者が、短期間なり
長期間なり、都合に合わせて様々な瞑想の行を
中心に世界中から集っている。
私も、何度かその地に訪れ、ご指導をいただいた。
今では、創設者シャルマジは幽体となり、肉体を
脱いでしまわれたが、多くの弟子たちが忠実に、
シャルマジの残した教えを継承している。
さて、シャルマジはその著書*(1)で
スピリチュアリティについて次のように、語っている:
Evolution of the soul is always show and gradual.
It takes time and needs endurance coupled
with persistent efforts.
One must not lose his patience if it takes a
few rebirths to cleanse up the evil sanskars
(intrinsic impressions in the inner self)
accumulated over in the previous births
traversing through ’84 lack yonis’(numerous
life forms).
一行目に、‘魂を変えようしても、それはゆっくりと
少しずつ変化が現れるものであって 時間がかかるものだ。‘
と述べている。
だからこそ、“忍耐とたゆみない努力”が必要とされるという。
第二節のはじめでは、時間がかかるものというその単位は、
~時間というものではなく、‘何度も生まれ変わる’ほどの
覚悟が必要だという。
そうして、心の中にインプットされた悪が浄化される。
その悪はどのぐらいの間に積もり積もったものか?
シャルマジは‘’84 lack yonis’(numerous life forms).’
と表現している。
途方もない時間だ。
数知れない生態系の中を何度も生まれては死に、微生物から
植物、動物、人間にと輪廻を遂げてきての、地球が
たぶん創生された時代からのお話のように伺える。
私たちの魂は初めから人間だったとは限らない~と
インドでは考える。
私自身も、今の私の意識のはじめは”鉱石”だった
ような気がすると以前ブログに書いたことがある。
石、植物、動物、昆虫、??
本当に魂といっても、様々な形で、この世に生まれ
意識を重ね、体験を積み上げ、輪廻転生の輪(サイクル)
から逸脱できる’大覚の智慧’を持つことができる、と、
考えられているのだ。
印度の大師は よくこういう話をする。
それは、私たちが今‘人間’というフォームで現世に
生を受けて、それは、ほぼ、考えたら奇跡に
等しいのだと。
その意義をよく考えてほしいと。
漠然と過ごすにはあまりにも、もったいない、
奇跡であるのだから、今こそ ‘自分の魂’は?
と内面を見つめてほしいと。
なぜなら、それができるのは、人間の‘特権’だからだ。
人間として生まれてきた‘特権’として、そうした
抽象的で哲学的で、宇宙や大自然との関係、人が
人らしく生きる意味、愛とは、智慧とは、無私とは、
奉仕とは、などなどを考えることができるチャンス
なのだから~と。
さて、シャルマジの話に戻ると、そうして、自分自身
の中に積み重ねられてきた‘悪’を浄化するために、
輪廻転生を繰り返して、私たちは今ここに生きているが、
それほど、魂の質を上質に替えることは、時間が
かかる作業であり、真摯な努力と忍耐が必要だと
いうのだ。
これが彼の言う、スピリチュアリティ―である。
つまり、魂を昇華させ、より高い次元へと変容させること、
その一連の、心の流れと意識をこう呼んでいるのだろう。
印度の大師達は、だから、霊的なことを
スピリチュアリティ―とは 決していわない。
霊視や霊能者、霊的にまつわる、お清めやお祓い、
幽霊と意思疎通したり、空間から物質を出したり、
物を瞬間移動させたり、そういうことと、
スピリチュアリティとは一線がひかれる話である。
スピリチュアリティ―とは、シャルマジが上記で
述べているように、いかに魂を本質的に
変革させて高次元に高めていくか~その関連で使
われる言葉なのだ。
その意味では、時としては、宗教者はスピリチュアルな
探究者と言えるだろう。
これが彼の言う、スピリチュアリティ―である。
つまり、魂を昇華させ、より高い次元へと変容させること、
その一連の、心の流れと意識をこう呼んでいるのだろう。
印度の大師達は、だから、霊的なことを
スピリチュアリティ―とは 決していわない。
霊視や霊能者、霊的にまつわる、お清めやお祓い、
幽霊と意思疎通したり、空間から物質を出したり、
物を瞬間移動させたり、そういうことと、
スピリチュアリティとは一線がひかれる話である。
スピリチュアリティ―とは、シャルマジが上記で
述べているように、いかに魂を本質的に
変革させて高次元に高めていくか~その関連で使
われる言葉なのだ。
その意味では、時としては、宗教者はスピリチュアルな
探究者と言えるだろう。
神を求める真摯な求道者や、神と一体になろうと
修行するヨギ達は言うまでもない。
しかし、最近、私はシャルマジのおっしゃるご意見と
少し違う考え方をしていることに気が付いた。
スピリチュアルに生きるというのは、もっと、
自然体なのではないか?ということだ。
気張らなくても、気張っても、人の本質は、
ある一定の聖なる神の資質と智慧を
兼ね備えた魂の投影されたものだと思うからだ。
それに努力して近づこうというより、それを
思い出すためにはどうしたらよいかと
いうアプローチをしている限り、力まず、
自然体でゴールに近づくことができる
のではないか?
確かに、数知れない生まれ変わりを余儀なくされる
人の魂も存在するだろう。
が、時間というのは、この世のもの。
もし、その人が‘解脱したい’ と願ったとき
には、それは半分以上成就したものだと思う。
そう願うときが、どの次元においてであっても、だ。
幽体時でも霊体時でも、あるいは、地球上で肉体を
もって生きているときでも、その人が発願したとき、
すでにゴールは見えているのだという気がする。
解脱にはある意味時間があって、ないようなものだ。
解脱は 瞬時の次元の超越でもある。
ある意味、その時は 一瞬のうちに変容ができるのだと思う。
変容を遂げた人には、時間は存在しない。
多くのヨギ達が極めて長寿を持っていることを
考えれば、それは事実だろう。
最も、彼らはほとんど、下界に降りてこないから、
知る人ぞ知る存在であるようだ。
なん百年も生きているヨギは現代でも実存するのだ。
話を戻すと、そうした遠回りをした人は、つまり、
いろいろな生を生まれ変わってきた人は単に、そうした、
さまざまな体験をしたかったからだと考えることは
できないだろうか?
往々にして、苦しみや悲しみに満ちた人生が
多いのかもしれない。
が、気を楽にして考えれば、彼らがその体験を望んだから、
体験の場を創り出し、ある意味楽しみながら、その時間を
享受したと考えたほうが、自然だ。
苦しみに満ちていても、それはそれで、やはり、私たちの
潜在意識の奥底で願っていたことなのだろう。
その苦しみがあったからこそ、次のステージが来ることを、
私たちは知っているのだ。
それは時が過ぎてみれば その苦しみや悲しみを
通り抜けてきた意味 や意義がわかるときが来るのだろう。
だから、本当は ‘その人のその魂が’体験したかった‘
というのが ゴールに遠回りした理由なのだろう。
そう考えると、単に私たちがスピリチュアルに生きる
ためには、そう(スピリチュアルに)生きよう という
発心があれば、それで良いのだという気がする。
勿論 満足する段階にいたるまでは、時間はかかるように
見えるだろう。
が、すでに、私たちは、もう、スピリチュアルに
生きている存在なのである~
無意識であるにせよ・・・
と信じている。
*1~”What is spirituality?"
Gayatriteerth Shantikunj, Haridwar ,2010
月はスピリチュアルのシンボル的意味があるようです。
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