天国・地獄は自分が造りだす 平成25年7月26日
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著者はしがきから
わたしは1894年に極東を訪れた
11人の調査団の一員であった。
3年半にわたる極東滞在中、
ヒマラヤの大師たちに接触した。
大師は私たちが
偉大なる法則の働きを
実証されるのを実際に見るために、
大師がたの生活の中に親しく
入り込むことを許してくれた。
私のノートを今ここに、
“極東における、大師たちの生活と教え”
と題して、発表するが、そこに盛られた内容を
そのまま受け入れるか、否認するかは、
読者の自由である。
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理想を実現する
ヴィジョンを顕現する・・という話のあとで、
それらを現実化する時にみられるこの世の 差別について大師は語る。
”私たちの種々の差別や
仲間我が出てきて、地上どこに行っても
つきまとうようになったのは
どうしてだと思いますか?
それは、’我’の心が出て、私たちが
持っている神より与えられた力を
二元的に考えるようになった。
この力を誤用して、二元が出現した。(*1)
それは、人間がもともと自由意思を持ち、
自分が見た通りのものを造りだすものだからです。
ここから、種々の差別や大きな仲間割れが
出てきたのです。
しかし、それも改まる時期が来つつあります。
雑多な対立はその極限に達し、
人間は一切のものが 唯一の根源から出てきている
ということを認めつつあります。
天国とは 今この地上で人間の醸す平和と調和とで
あることを改めて悟るでしょう。
したがって、人は自分の選ぶがままに、
天国も地獄も造りだすということがわかります。
天国という考え方は正しいが、
それを一定の場所としたのは、誤りであった。
神はわがうちにある、否、わがうちだけではなく、
自分の周囲すべてのもの、すべての岩
すべての気、すべての花、およそ、
一切の被造物に存在すること、
自分のお灸する空気の中に、
自分の飲む、水の中、自分の使う金銭の中に、
神がましますこと、
神は一切の本質であることをしるでしょう。
人が呼吸する時、彼は空気とともに、
神を吸っているのである。(*2)
人が食物をいただくとき、彼は食物とともに
神をいただいているのです。
私たちは別に新しい今日はを造ろうなどとは
望んでいません。
現在ある宗教で十分であって
宗教はすべての人々に近づいて、
すべての人の内在する神を知ることが
できるようにしてあげる真理の場であると、
私たちは考えています。(*3)
貴方がた、クリスチャンは教会と関係あり、
教会とはただ一つのこと、即ち、
人類すべての中にあるキリスト意識を象徴する
ものであるということです。
これがわかれば、もう、今日の差別などいらなくなる。(*4)
一体人間の '我’の考え以外にどこに
差別があるというのでしょうか。
一つの教会、または、宗教団体と 他のそれは
どこが違うというのでしょうか?
いまどき、存在すると思われる差別は、
ことごとく、人間の我の心だけにしかないのです。
この差別が人類を導いて、今日に至らしめた結果
というものを見てください。
国民と国民 家族と家族、いや個人と個人の間にさえ、
大きい憎悪が生み出されてきたではありませんか。
それも、全部 教会がめいめい自分たちの心情、
あるいは、教義こそが、ほかのものより、勝っていると
考えてきたからです。
しかし、本当は全部同じことなのです。
なぜなら、究極において、同じところに至るからです。(*5)
個人が自分だけの天国を持つということはできないでしょう。
もし、持てるというのなら、あらゆる教会会員は、自分の
’何々教’という名札のついた、教会生活を地上ですまし、
天上でその報いを受ける段になっていくつもの天国と
いう迷路の中で自分専用の天国を探すために、余生を
ついやすことになるでしょう。
差別の過ちはどこにあるのでしょうか・・?”(214)
又、他人があなたのためにあなたの生命を表現する
ことはできないのです。又、なん人も 他の人に、
その人自身の生命をいかにして表現すべきか教えて
あげることもできないのです。(*6)”(215)
少し 言葉を補足させていただくのなら、
”二元が出現した。(*1)”、この二元の考え方とは
良い悪い、浄・不浄 増減 のような、二つの相反する
対象をもった考え方といえるだろう。
本来、実存するのは 神の資質のみであるというのが
一元、現象世界では当たり前の考え方は二元論に基づい
ているといえるだろう。次に、
人が呼吸する時、彼は空気とともに、
神を吸っているのである。(*2)
この ことはヨガの呼吸法でも重要な真理として捉えられて
いる。so-hum (ソーハム)の呼吸法がその一つである。
息を吸う時に、神の叡智や愛、生かす力(プラーナ)が
身体に取り入れられて、小我意識は 吐く息とともに
排出されると観想しながらの呼吸法である。
教会の意味、それは、
人類すべての中にあるキリスト意識を象徴する
宗教はすべての人々に近づいて、すべての人の
内在する神を知ることができるようにしてあげる
真理の場であると、私たちは考えています。(*3)
宗教は排斥すべきものではないが、その意義は私たちの
内在する 大いなる力 の意識に目覚めること、
あるいは、自己の真実に気づくこと、その一環の手段に
すぎないはずだ。
教祖を神様のように拝んだり、その宗派だけが真実だと
他を排斥するのは、本来の宗教の姿ではない~と大師は
ここで述べている。
”教会とはただ一つのこと、即ち、人類すべての中
にあるキリスト意識を象徴する”ことがわかれば、
私たちはすべて兄弟姉妹、地球家族であるという
言葉の実感がわいてくるがゆえに、差別はなくなる
だろう。
総ての人の本質は 皆等しいのだから・・・
なぜなら、究極において、同じところに至るからです。(*5)
究極においては、ゴールは一つだ。遠回りしても、どんな
道をどのような方法で歩いていても私たちの行きつく
山の頂上が 一つであるように・・・
又、なん人も 他の人に、その人自身の生命をいかに
して表現すべきか教えてあげることもできないのです。(*6)”
自分の心の奥の気づき以外に、その人を変えることは
神様すらできないという。
人の心を変えることは、他者の力ではまず無理である
と考えていた方が無難だ。
でも、今の世の中、思う通りに相手を動かしたいと
いう気持ちが先行している。自覚していなくても、
相手が自分の期待に沿えないからといって、腹を
立てる人がいかに多いことか・・・
怒りとは相手が自分の期待通りに行わないとき、
生まれるという。
神様も天界でつぶやいておられる
”人の心を動かすことほど難しいものはない”~と。
参考)
ヒマラヤ聖者の生活研究―自由自在への道 全5巻
S54年6月5日第五版 ベアード・T・スポールディング著
仲里誠吉訳 霞が関書房
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