他人が自分の人生を代わることはできない 平成25年7月25日
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著者はしがきから
わたしは1894年に極東を訪れた11人の調査団の
一員であった。3年半にわたる極東滞在中、ヒマラヤ
の大師たちに接触した。大師は私たちが 偉大なる
法則の働きを実証されるのを実際に見るために、
大師がたの生活の中に親しく入り込むことを許して
くれた。
私のノートを今ここに、“極東における、大師たちの
生活と教え”と題して、発表するが、そこに盛られた
内容をそのまま受け入れるか、否認するかは、読者の
自由である。
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饒舌に語り続ける・・
”要するに、人生の本当の意味に目覚めている人が
少ないからなのです。
大部分の人々が、あるいは欲求不満に陥り、あるいは、
眩惑し、あるいは押しつぶされ、或いは不安のまま、
人生を漂っているではありませんか。
各人が人生の意義をしっかりつかんで、自分自身の
生命の中心より、明確な目標と行動とを持って、
神の与え給う才能を顕現しなければならないのです。
各人が自分自身の生命の展開をしなければならない
のです。
自分が 誰かのために生きてやるということは
できない。
・・・略・・・
人生の全目的は、内なる真我を顕わしていくとき
おのずから明らかになります。
人は 今も将来も、神の神性なる像でつくられて
いることに変わりありません。
これが人間に対する神の目的です。
人間のために 神の意図し給うことを顕わすこと
こそ、人生における人間の一大目的でなければ
ならないのです。
・・・略・・・
必要といいい、欲求といい、実は生命の展開の過程
であるのに、これまで誤った見方がされてきている
のです。偉い というわれる教師たちの中には、
このような必要、あるいは欲求は、心の中から
潰して出さなければならないと説いていますが、
イエスは ’充ちたりしものに災いあれ’といわれたの
です。満ち足りたものは、停止してします。(*1)
生命に完全に触れるためには、私たちは各瞬間ごとに、
生命を完全に表現しようと欲求しなければならない。
この表現欲が同時に表現を駆り立てるものとなるの
です。地上の塵芥の中を 這いまわることに飽きると、
やがて、人は天かける事にあこがれる。
この憧れが、現在の制約を超克することを
可能ならしむる法則の発見へと人を誘うのです。
それを発見すると、人は、もはや、
時間・空間の中に制約されることなく、どこへでも
自分が欲するところへ行けるようになるのです。(*2)
昔から、人間は計画し、神が処理し給うといわれて
いますが、実はその逆が真なのです。
何故なら、神が計画し、人が処理するからです。
もし、人間がその気になれば、神のなすことすべてを
なしえるのです。
人は外的なもので満足で着なくなるとき、
魂は内なる力を求めるようになります。
その時、彼は実相 ”われは神なり’(IAM =真我)
を発見するようになります。
自分の中に魂を満足させ、
魂のすべての必要と 欲求とを満足させるすべて
の力があることを知り得るのです。
しかし、憂き世での打撃に打ちのめされた挙句
に、内界の平和と静謐を求めるように
ならなければ、このような知恵は出てこないかも
しれません。
彼が実相 ’我 神なり’こそ、自分の欲求を満足させ
てくれるものだと悟ったとき、欲求は事実充足
されるのです。
自分の欲望を充足させるのに、真我の外に何かを
求めるのはおろかです。
真我の開顕は真我自体がするのではなく、
個我がしなければならないからです。
実相を知ること、わがうちにすべての形ある
ものを作る力と原質と智慧が存在するということ、
明確にして、賢明な欲求であれば、それが生じた
瞬間にその力と智慧と原質が流れ来たり
それを実現させるものであるということは、
素晴らしい悟りです。”(218)
こうして、さらに話が続く。
”覚者はまず、わがうちに創造の原理が
存在することを確知しています。しかる後に彼は
観じます。(*3)
彼のこの悟りが彼の生命の実相にとって、
顕現の機会となります。彼にはヴィジョンがあります。
言い換えれば、彼は自分の可能性、途に横たわる
可能性を自覚しています。
彼に内在する創造原理を知ったうえで、
心底の願望を思い起こします。
すると、それが理念、即ち、雛形、即ち、
また中身となるべき力と原理とを
引き出す、原型となります。
’我観ずる’ことが魂の思考となるのです。
それは約束の土地、実現すべき
、夢であり魂はそれを信じて観ずるのです。
今はそれを意識して所持はしなくても、
法則を満たすにつれて、具体的な形となって
出てくるに相違ないのです。
それまでは次次と様々な経験に会い、
次々とそれを克服していかなければ
ならないこともあるでしょう。
しかし、それによって、魂が償いを果たすのに
役立っているのです。
ヴィジョンとは約束の土地、実現すべき、
理念のことであります。
そうと悟ったとき 魂はただ善のみをみて、
善のみを願うようになります。
この点について、
疑いや 動揺や躊躇があっては なりません。
そのような心の動きが
あれば、それは致命的となります。
人は自己のヴィジョンを忠実に
推し進めていかなければならないのです。”(219)
*1に書かれている ”満ち足りたものは、停止して
します。(*1)”は皮肉的に聞こえるかもしれないが、
満ち足りると、人はそこで満足するがゆえに、向上が
なくなるという意味だろう。
常に 今 を私たちは動いている。
停止しているというのは、そう見えるだけであって、
前に向かうか、後退するか、どちらかの動きしかない。
だから、もっと、この文章を厳密に考えると、満足
していると後退しがちだということかもしれない。
*2 の 箇所
時間・空間の中に制約されることなく、どこへでも
自分が欲するところへ行けるようになるのです。(*2)”
の意味は 時間空間の理念がある、現象世界
私たちが肉体を持って生きているこの世界においては
自分の欲する処に即座に行くことはできない。
しかし、霊対や幽体になったとき、私たちの想いで
行こう と意思しただけで、そこへ瞬時に行くことが
可能だという。
*3の箇所
”覚者はまず、わがうちに創造の原理が
存在することを確知しています。
しかる後に彼は観じます。(*3)”
では 瞑想のポイントが書かれている。
私たちが瞑想するとき、ただ漠然と
眼を閉じて、心を空っぽにするだけではない。
賢人の瞑想とは、あず、私たちの健康なる姿
円満なる人柄、つまり、自分の理想とする状況
こそ、まさに、本来の自分の姿であることを
しっかりと心に熟知させて、それを 目をつぶり
観想するわけだ。
参考)
ヒマラヤ聖者の生活研究―自由自在への道 全5巻
S54年6月5日第五版 ベアード・T・スポールディング著
仲里誠吉訳 霞が関書房
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