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なぜならば、なりふり構わず「物にとり憑かれた」状態に陥ってしまうからで、片付くまでは自傷行為に近い。それでも具現化すれば達成感があり、これはこれで神仏の賜物なのであろう。
まっこと神仏は全知にして聡明、慈悲深い御方である。
まあ、吐乱譜や吐与太話、はてまたアベェ話は置いといて、シューズ業界では当たり前で社運がかかる機能性やデザインの領域をシューズでは無い伝統的な下駄で表現できるか試みたのだが、そこはド素人の工作だから出来不出来も愛興の内で、目に止めた方は愛を持って興じて欲しい。「愛嬌」とまでは強要しない。
適材の入手は叶わぬから廃材の柱を用いて制作する。写真の三足はどれも同じ狙いなものの「歩き心地」と「履き心地」が異なる。詳細は省くが、左の下駄は背筋が伸びた感覚が顕著で歩く時の音が心地よかった。
中央は同じ狙いなのだが安定感を重視して成形した。これだと接地した時の感覚が強すぎて違和感があった。
右の下駄は中央の下駄の足底部を掘り込み履き心地を向上させたタイプで、その事は試作せずとも承知の範囲だ。いわば「履き心地」と「歩き心地」の両立を試みたものだが、軽くはなったものの前述の理由で感覚面での改良の余地はある。
当たり前だが、着地も踏み込み・蹴り出しも物理の法則に従わないとスムーズさを欠く。シューズとは異なり柔軟性を欠く下駄なら、なおの事なのであろう。
台は柿渋仕上げで鼻緒も自作品だが、取り付けは職人にやってもらった。足形があれば出来なくはないものの「出来上がり」の「フイット感」は微妙な調整が必要なのである。
まあ、お遊びの域を出なくても「面白い」のが良い。「尾も白い」のも「毛が白い」のも許せる範囲だが、小生「これはハゲー」には言及したくない…。
裸木の如し許せる更地だめ 無縁爺