帰省し二日間の滞在中にトンボ一匹見る事が出来なかったのは既に触れた通りである。実家の裏、家庭菜園にはモンシロチョウがいたけれど、キアゲハは一回見ただけだ。
それでも山裾の墓地に連なるエリアにはハルジオンやシャガなどが開花していたせいかゴマダラチョウが複数飛翔していた。ゴマダラチョウの食草はエノキなどだから農耕地とは関係性は薄い。
更にため息の元になったのは集落にツバメが飛んでいない事だった。農村部なのに留鳥のスズメも「どこへ行った?」と言うありさまでは全く砂漠としか表現の仕様がないだろう。
「不用の用」を突き詰めた結果「冨養の要」を失ってしまった感がある。米作り有名名産地となったものの「生まれ出づる」多くの生き物を失っている。パラチオンなどの劇薬農薬を使わなかった世界を知っている小生としてはバイブル「沈黙の春」は驚きもしなかった。だかその世界が郷里に実現するとも思わなかったのである。
水を湛えて田植えの終わった田圃もこれからの田圃も生き物と言われるのはアメンボしか確認できなかったし農道や畦の植生はスギナなどの貧弱な単純植生では植物に頼り生きていく生物は世代を重ねる事は不可能だろう。
ましては半年間の長きに乾田として維持される田圃は水生生物が命をつなぐ場所とはなりえなくなった。日本の風景と生物層は水田とそれを維持する水系により育まれてきたのに基盤を失ってしまった。豊かな水域が広がっていても命を繋げる水域では無い蜃気楼に等い。
水稲栽培が文化を失い均質化画一化の功利主義に至った結果でもある。里山里地・稲作が日本の生態系を構築したと言われるがもう文化の片鱗もない。
たまたま見た番組で耕作放棄地を活かす算段をしている活動を紹介していたが、ここに復活させるカギがある様に思えた小生である。とは言ってもそのような活動を行うには歳を重ね過ぎた。今のフイールドを世話するだけで息切れしているのが現状だ。
番組の中で「耕作放棄地の大部分は圃場整備が行われていない地区で発生している」のだとか。効率化集約化低コスト化の結果だろうが、それならばその耕作放棄地を周年湛水させておけば砂漠化も耕地荒廃も防げるのではないのかと素人考えであるけれど耄碌した頭脳に浮かんだのだった。
揺り籠でもありシェルターでもあった溜池管理が出来ず危険視され消失しているのが現状と聞くが、休耕田や放棄田に湛水する事自体、維持管理の手間を重ねる結果で実現可能性はミクロだろうけれど生物多様性なんてお題目だけ、絶滅危惧種のリストだけなどで済ます様な風潮はホント苦々しい。
生物多様性はけっして多種多様ではなくとも二次元三次元四次元的に揺らぎながらも関係性が維持されていく事が大事だと思う小生である。しかしながらそれを支えるはずの食物連鎖や環境多様性などについての取り組み等は聞く事も見る事もない。
まあ、環境教育NPOなどと称しても実態は環境破壊活動を行って憚らないし、国政を例に挙げるまでもなく、なんともしょうもないまやかし「不要の妖」が増えた。ここにも「悪化は良化を駆逐する」という法則があるし「君子は政に携わらず」が明白だ。
論語にも「枉れるを挙げて諸を直きに錯ば・・・」とあるが、けだしごもっとも…。ただ「すなわち民模す」が現代調。ここには新種の文化が豊かに育っている密林「事案グル」がある。この温暖化に歯止めは効かない。
まあ、とは言いつつも小生だって「蕪ログ」の発信者であるからして偉そうなことは家米。
それでも山裾の墓地に連なるエリアにはハルジオンやシャガなどが開花していたせいかゴマダラチョウが複数飛翔していた。ゴマダラチョウの食草はエノキなどだから農耕地とは関係性は薄い。
更にため息の元になったのは集落にツバメが飛んでいない事だった。農村部なのに留鳥のスズメも「どこへ行った?」と言うありさまでは全く砂漠としか表現の仕様がないだろう。
「不用の用」を突き詰めた結果「冨養の要」を失ってしまった感がある。米作り有名名産地となったものの「生まれ出づる」多くの生き物を失っている。パラチオンなどの劇薬農薬を使わなかった世界を知っている小生としてはバイブル「沈黙の春」は驚きもしなかった。だかその世界が郷里に実現するとも思わなかったのである。
水を湛えて田植えの終わった田圃もこれからの田圃も生き物と言われるのはアメンボしか確認できなかったし農道や畦の植生はスギナなどの貧弱な単純植生では植物に頼り生きていく生物は世代を重ねる事は不可能だろう。
ましては半年間の長きに乾田として維持される田圃は水生生物が命をつなぐ場所とはなりえなくなった。日本の風景と生物層は水田とそれを維持する水系により育まれてきたのに基盤を失ってしまった。豊かな水域が広がっていても命を繋げる水域では無い蜃気楼に等い。
水稲栽培が文化を失い均質化画一化の功利主義に至った結果でもある。里山里地・稲作が日本の生態系を構築したと言われるがもう文化の片鱗もない。
たまたま見た番組で耕作放棄地を活かす算段をしている活動を紹介していたが、ここに復活させるカギがある様に思えた小生である。とは言ってもそのような活動を行うには歳を重ね過ぎた。今のフイールドを世話するだけで息切れしているのが現状だ。
番組の中で「耕作放棄地の大部分は圃場整備が行われていない地区で発生している」のだとか。効率化集約化低コスト化の結果だろうが、それならばその耕作放棄地を周年湛水させておけば砂漠化も耕地荒廃も防げるのではないのかと素人考えであるけれど耄碌した頭脳に浮かんだのだった。
揺り籠でもありシェルターでもあった溜池管理が出来ず危険視され消失しているのが現状と聞くが、休耕田や放棄田に湛水する事自体、維持管理の手間を重ねる結果で実現可能性はミクロだろうけれど生物多様性なんてお題目だけ、絶滅危惧種のリストだけなどで済ます様な風潮はホント苦々しい。
生物多様性はけっして多種多様ではなくとも二次元三次元四次元的に揺らぎながらも関係性が維持されていく事が大事だと思う小生である。しかしながらそれを支えるはずの食物連鎖や環境多様性などについての取り組み等は聞く事も見る事もない。
まあ、環境教育NPOなどと称しても実態は環境破壊活動を行って憚らないし、国政を例に挙げるまでもなく、なんともしょうもないまやかし「不要の妖」が増えた。ここにも「悪化は良化を駆逐する」という法則があるし「君子は政に携わらず」が明白だ。
論語にも「枉れるを挙げて諸を直きに錯ば・・・」とあるが、けだしごもっとも…。ただ「すなわち民模す」が現代調。ここには新種の文化が豊かに育っている密林「事案グル」がある。この温暖化に歯止めは効かない。
まあ、とは言いつつも小生だって「蕪ログ」の発信者であるからして偉そうなことは家米。