今日も夏日だ。爽やかな暑さだった。時折、風に乗って土ほこりのようにヒノキの花粉が襲ってくるのには閉口したが針葉樹の花粉は大丈夫なのだ。
拠点に他団体の催しで親子連れが入るようになった。昼食を取って、ひとしきりかまどやテーブル、手摺などをたたいたりして遊んだ後、引き上げて行った。
3歳未満児のグループだけだが見ていると飽きない。親の対応も様々だ。人類だけでなく自然界にも目を転じると結構面白いのが目に付く。骨折して作業に熱中できない事のメリットだろうか。繊細な活動も結構面白いものだ。
今日の最大の収穫はトンボを見たことに尽きる。「ハグロトンボ」だと思うが、手を洗ってから帰ろうと踵を返したことが出会いの機会となった。
一日の晴れ間を惜しんで山に入ったのが骨折の機会となったことを考えると「人間万事塞翁が馬」というのが実感できる。思い出すたびにトホホな気分だが、記念樹に八重の桜が三輪ついていた。幼樹なのに、と思うといじらしい。
『露天風呂雨汗混じり頬かむり』
『山萌えてわが身も癒えし露天かな』
『雨の風呂けむりて晴れてまたけむる』
『湯おもてに雨の槌打つ水柱』
予報どおりの雨となった。かねてから狙いの山のいで湯に出かけた。利用客はそれぞれ座卓を独占状態で、快適だった。
湯は源泉掛け流しもありジャグジーもあって、骨折の患部には気持ちの良い環境だった。雨のため菅笠を被って露天風呂に入っていたが新緑が美しい。雨粒が湯に落ちるとクラウンと水柱が立つので顔の周りはしぶきだらけだった。
水面ぎりぎりに目を寄せて水柱を見ていると噴水のようでもあり映画の「少林寺36窟?」のようでもあったが、そんなことをして楽しんでいたのは一人だけだった。
浴場近くの川端で「アケビの新芽」を摘んだ。少々苦くてもおいしい春の味覚なのだが、この地域は食用にする伝統がないから独占状態だ。
『竹林爺婆竹で孫も出ず』
『タケノコを獲るが目的皆殺し』
『届かぬと幹を切られたタラの芽木』
『持続的山の幸などわしゃ知らん』
今年はタケノコが凶作だ。他の地区は知らないが「裏年」なんて状況では決してない。昨年の記録的降雨量の減少が影響しているのかどうかは不明だが、そうだとすれば全県似たような状況になるだろうが情報がないからわからない。頭を出しているのも小さくいじけたような物が多い。
それは別にして、このフイールド近辺の竹林の状況を考慮すると「タケノコが減少したのは当たり前」と思える点もある。自分で確認できた竹林だけに限定すれば「ここ数年、親竹が育っていない」のが実情だ。狭い範囲に連日、二桁のタケノコ獲りが入山しているから、ほとんど皆伐に近いのだ。収穫したものを披露させてもらうと、今年は特に小さいものまで獲っている。
皮を剥けば親指の太さも無いようなタケノコまで獲りきってしまう現状だ。公徳心など初めから期待してはいないが、タラの芽など幹を切って収穫するし、独活など食べるところが無いような小ぶりのものまで欠き獲っていく。入山し易くした当事者とすれば共犯者ともいえるが複雑な気持ちだ。
もう、支柱をして保護している幼樹もタケノコ欲しさに支柱ごと鍬を入れられるし、植生の踏み荒らされ方は尋常ではないから実生苗は壊滅している。血圧が上がるからこのへんで止める。
元『偽りのなき世なりせばいかばかり人の言の葉うれしからまし』 読み人知らず
新『偽りの無き世なければ虚仮ばかり人の言の葉憂いし絡みし』
元『わが妻はいたく恋ひらし飲む水に影さえ見えて世に忘られず』 若倭部身麻
新『我が妻は痛し恐ろし飲む酒に影さえ見えて夜に忘られず』
出かける途中、入学式に向かう親子連れが歩道に溢れていた。新一年生より母親が目立つのが正直な感想、いや乾燥かも。
小生に入学式の記憶はない。代わりにあるのは入学対象児に行われた「検査」というやつだ。
小学校の二階で実施されたが順番待ちの時、廊下から裏山の斜面の雪が崩れていて「春が来た」と実感した事、それにカスタネットのリズムを模倣するのを間違えてしまったことの二つだけだ。相手してくれたのが担任になった先生だった。二年生の時に出産して用務員室に赤ちゃんを預けて勤務していた。産後の初出勤の時の恥ずかしそうな表情は今も覚えている。
フイールドにも一年生が溢れている。育苗畑に芽生えたカラスザンショウはアゲハのために移植したがリョウブやシイも発芽が盛んだ。しかし欲しい樹種の幼苗はなかなか見つからないものだ。かくして手を入れなければ別の方向に向かう。
タンポポの白色が一株あった。街中のセイヨウタンポポでは普通に見かけるが山では初物といってよいだろう。近くに白いスミレが群生していたが、これは偶然だろうなあ。
昨夜の雨で濡れている事と、フイールドへ行く途中の道路がマラソン大会で交通規制になっていたから、今日は自宅軟禁だ。
ジャーマンアイリスの軟腐病予防のため銅水和剤を散布していた時にグループのMさんから電話があって掘り取ったばかりの筍を頂くことにした。竹林は活動場所でもあるが、案内や指導はしても自分で掘り取り食すのは大概五月ごろだから、少々早めの初物となった。
小さいほうはアク抜きをせず直接筍ご飯に入れ炊き上げた。遅めの昼食になったので葉唐辛子の佃煮と甘口の霧島たくあんで済ませたが、中くらいのものはヌカ汁で茹でたので昼には間に合わなかったのだ。
夕食と明日の昼食くらいまでは筍ご飯と筍の煮物だけが続きそうだ。思い起こせばサツマイモの収穫があればサツマイモ、カボチャの収穫があればカボチャと子ども時代は「ばっかり食」は普通だった。
食事だけでなくスイカやプリンスメロン、マクワ瓜など収穫最盛期は土間に山積みだったから食事も摂らないで、と言うより摂れないほど好きなだけ食べていたが、遠い昔になってしまった。
今はというと、旬に一切れ二切れ食べれる程度だから、これで豊かになったのだろうかと考えてしまう。
『キシキシと鴬張りの床のよう胸に触れては不思議に思う』
『カウントを数えし骨はキシキシと激痛出すと我に告げたり』
『二週経ちクシャミも咳も安堵なり黄砂花粉も恐れは無きぞ』
骨折してから一ヶ月が経過した。痛みは薄れたものの仰臥の角度によっては軋み感があるから、夜間は上体を起こしたままだ。
「この辺かなあ」と指でなぞると曲がっているような膨らんでいるような部位があるが断定できない。その近くに押すと「気泡が動く」ブツブツ感を生じるところがあって、ここかもとも思うのだが腕の骨折の時みたいに明確に触知できない。
それでも痛みは無いと感じているので、用心していないと負担をかけそうだ。天気は下り坂とのことだから、明日は自宅軟禁と決めてフイールドに出向く。
カラスザンショウの苗を遊歩道周辺に移植するためだったのだが、棘は多いし快適でない匂いもあるから通常は刈り捨てられる種類といえる。それでもアゲハの幼虫の食草となるから移植して保存した…という次第。
腐葉土も欲しくて落葉の集積場所を掘ったら、プックリと肥えた幼虫が出てきた。今年の分は自然産卵の幼虫だから「産卵した」ことは確認できたわけだ。
時間というものは傷も癒すし命も育むなあ、とおもった次第だが育つ命もあれば細るのもあるというのが前期高齢者の仲間にされそうな小父の実感だ。