アンドリュース記念館の南側に、近江八幡教会があります。
大正13年に、ヴォーリズによって建てられたのですが、
焼失して、現在の建物は二代目のようです。
遠くからでも見える、屋根の上の白い鐘楼が印象的。
ヴォーリズは、伝道の活動拠点に基督教青年開館(YMCA)、
のちのアンドリュース記念館を建築したのですが、
教師の職を解かれ、失業中に伝道の支援者探しのために帰国、
若い建築家を連れて日本に戻って来たそうです。
明治43年、京都三条YMCAから建築現場の監督を
依頼されたことをきっかけに、建築設計事務所を開設。
教え子の吉田悦蔵はじめ、スタッフも増えていったようです。
ヴォーリズ記念館。
晩年の、ヴォーリズ夫妻が暮らした住まいです。
アンドリュース記念館も2階に和室の続き間がありましたが、
ここの建物も奥に和室を造るなど、和洋折衷の建物です。
入り口にモッコウバラのアーチがりました。
玄関には、座れるように壁にベンチが造り付けられていて、
座って靴が履きやすいように工夫されていました。
友だちは、ヴォーリズが建てた洋館やし、
靴は抜かなくてもいいやろうと思ってたようで、
ヒモ付きの、上等のウォーキングシューズを、
何度も脱いだり履いたり、嘆いておりました~(汗)
これは、3年ほど前に建った銀行。
近江八幡で、一番最近建ったヴォーリズ建築です。
ヴォーリズ建築設計事務所は、会社として健在で、
ヴォーリズの意志を継いで、今なおお仕事をされてるんですね。
ヴォーリズ記念館では、映像を使って座学です。
ヴォーリズの来歴。どれだけ近江八幡を愛していたか、そして、
YMCAの建物を建てるときに、土地を提供してくれた人や、
アメリカで、寄付をしてくれた人たちがいたというのも、
彼がいかに、近江八幡に馴染んでいたか、ということなんですね。
アメリカに留学して幼児教育を学んできた奥様と出会い、
国籍を超えて、二人は結婚するのですが、
このとき、出会ったのが大同生命のパーティの席で、
朝ドラのモデルとなった広岡浅子さんが協力したのだとか。
浅子氏の娘婿が、真喜子さんのお兄さんやったんですね。
なかなか、いっぺんに書けませんね~
今日は、ここまで・・・
大正13年に、ヴォーリズによって建てられたのですが、
焼失して、現在の建物は二代目のようです。
遠くからでも見える、屋根の上の白い鐘楼が印象的。
ヴォーリズは、伝道の活動拠点に基督教青年開館(YMCA)、
のちのアンドリュース記念館を建築したのですが、
教師の職を解かれ、失業中に伝道の支援者探しのために帰国、
若い建築家を連れて日本に戻って来たそうです。
明治43年、京都三条YMCAから建築現場の監督を
依頼されたことをきっかけに、建築設計事務所を開設。
教え子の吉田悦蔵はじめ、スタッフも増えていったようです。
ヴォーリズ記念館。
晩年の、ヴォーリズ夫妻が暮らした住まいです。
アンドリュース記念館も2階に和室の続き間がありましたが、
ここの建物も奥に和室を造るなど、和洋折衷の建物です。
入り口にモッコウバラのアーチがりました。
玄関には、座れるように壁にベンチが造り付けられていて、
座って靴が履きやすいように工夫されていました。
友だちは、ヴォーリズが建てた洋館やし、
靴は抜かなくてもいいやろうと思ってたようで、
ヒモ付きの、上等のウォーキングシューズを、
何度も脱いだり履いたり、嘆いておりました~(汗)
これは、3年ほど前に建った銀行。
近江八幡で、一番最近建ったヴォーリズ建築です。
ヴォーリズ建築設計事務所は、会社として健在で、
ヴォーリズの意志を継いで、今なおお仕事をされてるんですね。
ヴォーリズ記念館では、映像を使って座学です。
ヴォーリズの来歴。どれだけ近江八幡を愛していたか、そして、
YMCAの建物を建てるときに、土地を提供してくれた人や、
アメリカで、寄付をしてくれた人たちがいたというのも、
彼がいかに、近江八幡に馴染んでいたか、ということなんですね。
アメリカに留学して幼児教育を学んできた奥様と出会い、
国籍を超えて、二人は結婚するのですが、
このとき、出会ったのが大同生命のパーティの席で、
朝ドラのモデルとなった広岡浅子さんが協力したのだとか。
浅子氏の娘婿が、真喜子さんのお兄さんやったんですね。
なかなか、いっぺんに書けませんね~
今日は、ここまで・・・