新入部員の楽器決めが無事おわった。
例年よりも平和裏におわったのではないだろうか。
もちろん、涙をのんで譲ってくれた子もいるかもしれない。
しかし9割以上がはじめて楽器を手にするのだ。
何が自分にあっているのか、ほんとうのところは誰にもわからない。
今回決まった楽器で上手くなれるかどうか、いい部活ライフを送れるかどうかは、適性や才能ではなく、取り組む姿勢にあることはまちがいない。
「希望どおりにはならなかったかもしれないが、決まった以上、それが第一希望だったと思ってとりあえず一生懸命やってごらん」と話した。
「先生だって、別に吹奏楽部の顧問になろうなどと思っていたわけじゃない。たまたま誰もやり手がなくて、やれと言われたからやっただけなんだけど、一生懸命やってたらすごく面白くなった。人生なんてそんなものだから」とついよけいなことを言ってしまった。
過去をふりかえると、「おれは絶対この楽器しかやりたくない。やれないならやめる」という姿勢の子が何人かいた。
そこまでいうならと、その子に希望楽器をまかせはしたが、入部当初にそういう姿勢だった子は、だいたい途中でやめちゃったなあという印象が残っている。
「なんでもいいです」という子が、いつのまにかどんどんはまっていく様子をみることはけっこうあった。
学年だよりに書いたネタでこういう話がある。
~ ある村に伝説があった。
ある年、ある日、ある時間にこのような風貌の旅の男が村の端を通るであろう、という。その男こそ観音であり、村に残り、村を救ってくれるであろう、というのである。
村人たちは、その日を心待ちにしていた。
その日、その時間がやってくると、伝説どおりの格好をした旅の男がやってきた。
村人たちは「お待ちしていました、あなたこそ観音です。どうぞこの村を救ってください」と言う。
実はその旅の男は、観音でもなんでもなくて、本当にただの旅人だったのだが、「あなたたちがそんなに言われるなら、わたしは、きっとそうなのでしょう」と言って、旅をやめ、その村に残り、その村のために尽くした、その男の働きは、村にとってとても役に立った、という。
その男はもちろん、もともと観音であったわけではない。しかし役割を受け入れることにより、観音ならずとも有為な人間として生を終えたのである。
役割を受け入れる、とはそのようなものだと思う。自分には到底そのような力はないと思っても、期待されることによって、役割を全うできる人間になっていく。(内田樹・三砂ちづる『身体知-身体が教えてくれること』)~
「やりたいことをやろう!」と多くの人が言う。
「自分のやりたいことを見つけよう」と。
でも、それがほんとうにやりたいことかどうかは、実はやってみないとわからない。
けっきょく、自分のやりたいことなんていうのは、人はわからないのだ。
何かの縁でやれる機会があったなら、とりあえずやってみる。
しかも一生懸命やってみる。
一生懸命やれた人は、これが俺のやりたいことだったんじゃないかなと気づく。
これは俺のやりたいことじゃない、と言って動き出さない人は、やりたいことがみつからないままに終わっていく。
そんなものではなかろうか。
例年よりも平和裏におわったのではないだろうか。
もちろん、涙をのんで譲ってくれた子もいるかもしれない。
しかし9割以上がはじめて楽器を手にするのだ。
何が自分にあっているのか、ほんとうのところは誰にもわからない。
今回決まった楽器で上手くなれるかどうか、いい部活ライフを送れるかどうかは、適性や才能ではなく、取り組む姿勢にあることはまちがいない。
「希望どおりにはならなかったかもしれないが、決まった以上、それが第一希望だったと思ってとりあえず一生懸命やってごらん」と話した。
「先生だって、別に吹奏楽部の顧問になろうなどと思っていたわけじゃない。たまたま誰もやり手がなくて、やれと言われたからやっただけなんだけど、一生懸命やってたらすごく面白くなった。人生なんてそんなものだから」とついよけいなことを言ってしまった。
過去をふりかえると、「おれは絶対この楽器しかやりたくない。やれないならやめる」という姿勢の子が何人かいた。
そこまでいうならと、その子に希望楽器をまかせはしたが、入部当初にそういう姿勢だった子は、だいたい途中でやめちゃったなあという印象が残っている。
「なんでもいいです」という子が、いつのまにかどんどんはまっていく様子をみることはけっこうあった。
学年だよりに書いたネタでこういう話がある。
~ ある村に伝説があった。
ある年、ある日、ある時間にこのような風貌の旅の男が村の端を通るであろう、という。その男こそ観音であり、村に残り、村を救ってくれるであろう、というのである。
村人たちは、その日を心待ちにしていた。
その日、その時間がやってくると、伝説どおりの格好をした旅の男がやってきた。
村人たちは「お待ちしていました、あなたこそ観音です。どうぞこの村を救ってください」と言う。
実はその旅の男は、観音でもなんでもなくて、本当にただの旅人だったのだが、「あなたたちがそんなに言われるなら、わたしは、きっとそうなのでしょう」と言って、旅をやめ、その村に残り、その村のために尽くした、その男の働きは、村にとってとても役に立った、という。
その男はもちろん、もともと観音であったわけではない。しかし役割を受け入れることにより、観音ならずとも有為な人間として生を終えたのである。
役割を受け入れる、とはそのようなものだと思う。自分には到底そのような力はないと思っても、期待されることによって、役割を全うできる人間になっていく。(内田樹・三砂ちづる『身体知-身体が教えてくれること』)~
「やりたいことをやろう!」と多くの人が言う。
「自分のやりたいことを見つけよう」と。
でも、それがほんとうにやりたいことかどうかは、実はやってみないとわからない。
けっきょく、自分のやりたいことなんていうのは、人はわからないのだ。
何かの縁でやれる機会があったなら、とりあえずやってみる。
しかも一生懸命やってみる。
一生懸命やれた人は、これが俺のやりたいことだったんじゃないかなと気づく。
これは俺のやりたいことじゃない、と言って動き出さない人は、やりたいことがみつからないままに終わっていく。
そんなものではなかろうか。