週刊文春で「そうそう!」と思った言葉。
~ 最近、若い女の子たちにすごく支持されている女性シンガーの歌に、「ありがとう、君がいてよかった」みたいな歌詞があるの。それは分かるけど、その気持ちを自分のフィルターを通して別の言葉で表現するのが「アーティスト」なんじゃないの? って。 ~
阿川佐和子さん対談コーナーでのマツコデラックス氏の言葉だ。
音楽に限らず、Aということを言いたい、伝えたい、それを自分なりの文字やら音符やら絵やら踊りやらで表そうと心から望んだときに、芸術作品は生まれる。
吹奏楽の曲で、途中でプレイヤーがオオカミの遠吠えを声で発するという作品を聴いたことがある。
はじめて聴いたとき、作曲者、正気か? と思ってしまい、またそんなのを演奏させる顧問もどうなのかなとも感じた。
今年も途中でみんなが「ワハハハ!」とか笑いだす曲があって、なんであんなに上手な子たちが、こんな曲を演奏しないといけないのかなとかわいそうになったものだ。
聴衆が、人々の笑い合っているシーンを自然と思い浮かべてしまうような音楽を、プレーヤーを笑わせずに作るのが、クリエイトなんちゅうものなんじゃないの。
「カヴァレリアルスティカーナ」で、もとのオペラでは主役のテノールの人がオフステージで歌うアリアがある。宍倉先生の吹奏楽版では、このメロディーがTpソロに割り当てられている。
吹奏楽版でも、ここはオフステージで、つまり舞台袖で演奏するよう指示があるのだ(たしかあったな)。
でも、これもなぜオフステージでという趣向だけを、吹奏楽版にもちこまないといけないのかがわからない。
じゃ最後らへんのサックスソロは、舞台中央に立ってやるべきなんじゃないのと思うし、もっと言えば、アリアや合唱にあたる人たちは舞台上にいて、指揮者と残りのバンドはオーケストラピットで演奏すればいい。
あのソロだけを舞台袖にさげるというのが、なんとも中途半端に思える。
吹奏楽版カヴァレリアの必然というより、ちょっとオペラ風でしょ的企画にしか思えなかったのだ。
でも、こんな風に思う人間は異端なのでしょうね。
~ 最近、若い女の子たちにすごく支持されている女性シンガーの歌に、「ありがとう、君がいてよかった」みたいな歌詞があるの。それは分かるけど、その気持ちを自分のフィルターを通して別の言葉で表現するのが「アーティスト」なんじゃないの? って。 ~
阿川佐和子さん対談コーナーでのマツコデラックス氏の言葉だ。
音楽に限らず、Aということを言いたい、伝えたい、それを自分なりの文字やら音符やら絵やら踊りやらで表そうと心から望んだときに、芸術作品は生まれる。
吹奏楽の曲で、途中でプレイヤーがオオカミの遠吠えを声で発するという作品を聴いたことがある。
はじめて聴いたとき、作曲者、正気か? と思ってしまい、またそんなのを演奏させる顧問もどうなのかなとも感じた。
今年も途中でみんなが「ワハハハ!」とか笑いだす曲があって、なんであんなに上手な子たちが、こんな曲を演奏しないといけないのかなとかわいそうになったものだ。
聴衆が、人々の笑い合っているシーンを自然と思い浮かべてしまうような音楽を、プレーヤーを笑わせずに作るのが、クリエイトなんちゅうものなんじゃないの。
「カヴァレリアルスティカーナ」で、もとのオペラでは主役のテノールの人がオフステージで歌うアリアがある。宍倉先生の吹奏楽版では、このメロディーがTpソロに割り当てられている。
吹奏楽版でも、ここはオフステージで、つまり舞台袖で演奏するよう指示があるのだ(たしかあったな)。
でも、これもなぜオフステージでという趣向だけを、吹奏楽版にもちこまないといけないのかがわからない。
じゃ最後らへんのサックスソロは、舞台中央に立ってやるべきなんじゃないのと思うし、もっと言えば、アリアや合唱にあたる人たちは舞台上にいて、指揮者と残りのバンドはオーケストラピットで演奏すればいい。
あのソロだけを舞台袖にさげるというのが、なんとも中途半端に思える。
吹奏楽版カヴァレリアの必然というより、ちょっとオペラ風でしょ的企画にしか思えなかったのだ。
でも、こんな風に思う人間は異端なのでしょうね。