自分が受けた高校での英語や古典の授業は、概ねこんなかんじだった。
予習で辞書をひいて単語を調べ、自分で訳をつくっていく。
授業中は、生徒が交代で訳していく。
先生がそれを直し、なぜそれが間違いなのか、なぜそういう訳になるのかなどを説明していく。
生徒は自分の訳文を添削し、構文、文法、単語の説明などをノートしていく。
当時のオーソドックスなスタイルだと思う。
二十数年前、本校の教員になって、少なくとも古典ではこのスタイルはできなかった。
まず予習を前提にできない。
考えてみると、自分が高校生のとき古典の予習などしなかったのだから、それを生徒に求めるのもおかしいだろ、とすぐに気づいた。
でも、英語の先生は昔から予習を求めていたんじゃないかな。
結果的に、一方的に説明し、黒板には文法や単語の説明を書き、そして訳も書き、生徒はそれを書き写すのが一番の仕事になるというスタイルにならざるをえなかった。
なんとかできないかな、とにかく訳を書き写すことが最大の仕事というのは、よくないんじゃないか、と研鑽に研鑽をかさね、研究と修養にはげみ、これぞ教師の鑑と誰もが思えるほどの莫大な努力をした結果、次の結論に達した。
訳、配ればいいんじゃね。
そうであったのだ。
訳なんて配ればいいのだ。ほんのいくつかの文章の訳を知るために、高価な教科書ガイドを買ってる子がいたけど、そんなの買うくらいなら映画見にいった方がいいよと思ったから。
その結果、みんなが私の話を聞かなくなったかというと、たぶんそれはないと思う。
聞いてない子もいるが、それは訳がもらえるからではなく、根本的に拒否してるからだ(泣)。
でも訳なんか配ればいいじゃん、という思想は、多くの教員にとって常識ではない。
本校でも、たとえば問題集の答えを配らない学年もあって、「配ってしまうと授業をきかなくなるから」と言う先生がいる。
議論してもしょうがないので、「そうですかね」と述べるにとどまるのだが、内心は「解答集があるから話を聞かないのなら、それでいいんじゃない、その授業は必要ないということで」と思ってしまうのだ。
訳をくばるかどうかなんて、一般の方々にはどうでもいいことかもしれないのだが、教員の姿勢としては、その背後に大きな思想の違いがあるのです。
授業で教えたいのは、訳ではなく、訳し方。
答えを教えたいのではなく、解き方を教えたい。
さらに理想を言うなら、「~方」の「見つけ方」なのだ。
見つけ方を見つける時のとんでもない脳の回転を体験してほしい。
突然こんなことを考えたのは、ユメタンのキムタツ先生のブログから、こういう記事を読んだからだ。
~ 資料「全文和訳方式」による英語授業の省力化について(by英語教育を守る会)~
暑い日々が続きますが、会員の皆様はお元気でお過ごしでしょうか。熱中症のニュースが毎日のように世間を騒がせております。どうぞ、お体にお気をつけてお過ごしください。
さて、今回のニュースレターでは、忙しい英語の先生方のために、最小の努力で授業をこなすための省力化の方法を伝授いたします。この方法を使えば、教える側の努力は最小限ですみ、授業以外のことにたっぷりと時間が確保できます。少しでも授業に費やすエネルギーを少なくするためにお役立てください。
(中略)
さらに生徒が勉強しているように見せるには、教科書の本文をきれいにノートに写すことを宿題にしましょう。これで、また数時間の疑似学習時間を稼ぐことができます。生徒も達成感を得て、勉強したと勘違いしてくれます。
そして、さらに「全文和訳」をさせるわけです。これらの予習作業で忙殺されている子供を見て、御父母の皆さんはすっかり「学校はよくうちの子を勉強させてくれている。」と思いこんでくれます。日本では御父母の皆さんも英語が苦手なことが多いので、まずこれを怪しまれることはありません。さて、授業すべてを教師がやると、大変な体力を消費します。そこで「全文和訳方式」が威力を発揮します。生徒を指名して一文ずつ訳を発表させるのです。教師は椅子に座ったままでいることができます。面白い訳が飛び出し、教室の笑いを誘うこともできるかもしれません。教師のあなたはただ指名するだけです。
(中略)
さて、生徒に発表させるだけでは、さすがに教師も退屈なので、マニュアル中の全文和訳をゆっくり読み上げ、生徒に書き取りをやらせましょう。その際に、マニュアルの文法説明を少し加えると、親切に授業をしている印象を生徒に与えることができます。
生徒は手を動かしているため、勉強していると錯覚をし、授業に適度な達成感を得ることができます。授業の終わりには、次の「予習」の指示を生徒に与えて、さらに生徒を忙殺しましょう。
「全文和訳」は英語教師の労力を最小限にし、生徒や父母に対しての面目を保つための、最高の教授法なのです。
ご存じのこととは思いますが、このレターは外部に流出しないように「極秘扱い」としてください。もしも、この手抜きの方法が、世間から大々的に糾弾されてしまうと、実用的な英語を教える授業への、全面的な切り替えがなされてしまいます。
~ 引用終わり ~
これはもちろん、本当に出回った「ニュースレター」ではなく、有名な安河内先生の書かれたパロディとしての文章だ。
しかし、こういう文章が成立するということは、英語の授業でも、何十年も前からの旧態依然とした授業が今も行われていることを表すのだろう。
大学の先生ほどではないけれど、教員の世界というのは、勉強しないままでいようと思ったら、ほんとに勉強せずに過ごせる(あくまで一般論ということで)。
裸の王様にはなりたくないと思う、今日このごろである。
明日の古典はがっつりしぼって … 明日また休みか。じゃあ、がっつりB♭あわせよう。
予習で辞書をひいて単語を調べ、自分で訳をつくっていく。
授業中は、生徒が交代で訳していく。
先生がそれを直し、なぜそれが間違いなのか、なぜそういう訳になるのかなどを説明していく。
生徒は自分の訳文を添削し、構文、文法、単語の説明などをノートしていく。
当時のオーソドックスなスタイルだと思う。
二十数年前、本校の教員になって、少なくとも古典ではこのスタイルはできなかった。
まず予習を前提にできない。
考えてみると、自分が高校生のとき古典の予習などしなかったのだから、それを生徒に求めるのもおかしいだろ、とすぐに気づいた。
でも、英語の先生は昔から予習を求めていたんじゃないかな。
結果的に、一方的に説明し、黒板には文法や単語の説明を書き、そして訳も書き、生徒はそれを書き写すのが一番の仕事になるというスタイルにならざるをえなかった。
なんとかできないかな、とにかく訳を書き写すことが最大の仕事というのは、よくないんじゃないか、と研鑽に研鑽をかさね、研究と修養にはげみ、これぞ教師の鑑と誰もが思えるほどの莫大な努力をした結果、次の結論に達した。
訳、配ればいいんじゃね。
そうであったのだ。
訳なんて配ればいいのだ。ほんのいくつかの文章の訳を知るために、高価な教科書ガイドを買ってる子がいたけど、そんなの買うくらいなら映画見にいった方がいいよと思ったから。
その結果、みんなが私の話を聞かなくなったかというと、たぶんそれはないと思う。
聞いてない子もいるが、それは訳がもらえるからではなく、根本的に拒否してるからだ(泣)。
でも訳なんか配ればいいじゃん、という思想は、多くの教員にとって常識ではない。
本校でも、たとえば問題集の答えを配らない学年もあって、「配ってしまうと授業をきかなくなるから」と言う先生がいる。
議論してもしょうがないので、「そうですかね」と述べるにとどまるのだが、内心は「解答集があるから話を聞かないのなら、それでいいんじゃない、その授業は必要ないということで」と思ってしまうのだ。
訳をくばるかどうかなんて、一般の方々にはどうでもいいことかもしれないのだが、教員の姿勢としては、その背後に大きな思想の違いがあるのです。
授業で教えたいのは、訳ではなく、訳し方。
答えを教えたいのではなく、解き方を教えたい。
さらに理想を言うなら、「~方」の「見つけ方」なのだ。
見つけ方を見つける時のとんでもない脳の回転を体験してほしい。
突然こんなことを考えたのは、ユメタンのキムタツ先生のブログから、こういう記事を読んだからだ。
~ 資料「全文和訳方式」による英語授業の省力化について(by英語教育を守る会)~
暑い日々が続きますが、会員の皆様はお元気でお過ごしでしょうか。熱中症のニュースが毎日のように世間を騒がせております。どうぞ、お体にお気をつけてお過ごしください。
さて、今回のニュースレターでは、忙しい英語の先生方のために、最小の努力で授業をこなすための省力化の方法を伝授いたします。この方法を使えば、教える側の努力は最小限ですみ、授業以外のことにたっぷりと時間が確保できます。少しでも授業に費やすエネルギーを少なくするためにお役立てください。
(中略)
さらに生徒が勉強しているように見せるには、教科書の本文をきれいにノートに写すことを宿題にしましょう。これで、また数時間の疑似学習時間を稼ぐことができます。生徒も達成感を得て、勉強したと勘違いしてくれます。
そして、さらに「全文和訳」をさせるわけです。これらの予習作業で忙殺されている子供を見て、御父母の皆さんはすっかり「学校はよくうちの子を勉強させてくれている。」と思いこんでくれます。日本では御父母の皆さんも英語が苦手なことが多いので、まずこれを怪しまれることはありません。さて、授業すべてを教師がやると、大変な体力を消費します。そこで「全文和訳方式」が威力を発揮します。生徒を指名して一文ずつ訳を発表させるのです。教師は椅子に座ったままでいることができます。面白い訳が飛び出し、教室の笑いを誘うこともできるかもしれません。教師のあなたはただ指名するだけです。
(中略)
さて、生徒に発表させるだけでは、さすがに教師も退屈なので、マニュアル中の全文和訳をゆっくり読み上げ、生徒に書き取りをやらせましょう。その際に、マニュアルの文法説明を少し加えると、親切に授業をしている印象を生徒に与えることができます。
生徒は手を動かしているため、勉強していると錯覚をし、授業に適度な達成感を得ることができます。授業の終わりには、次の「予習」の指示を生徒に与えて、さらに生徒を忙殺しましょう。
「全文和訳」は英語教師の労力を最小限にし、生徒や父母に対しての面目を保つための、最高の教授法なのです。
ご存じのこととは思いますが、このレターは外部に流出しないように「極秘扱い」としてください。もしも、この手抜きの方法が、世間から大々的に糾弾されてしまうと、実用的な英語を教える授業への、全面的な切り替えがなされてしまいます。
~ 引用終わり ~
これはもちろん、本当に出回った「ニュースレター」ではなく、有名な安河内先生の書かれたパロディとしての文章だ。
しかし、こういう文章が成立するということは、英語の授業でも、何十年も前からの旧態依然とした授業が今も行われていることを表すのだろう。
大学の先生ほどではないけれど、教員の世界というのは、勉強しないままでいようと思ったら、ほんとに勉強せずに過ごせる(あくまで一般論ということで)。
裸の王様にはなりたくないと思う、今日このごろである。
明日の古典はがっつりしぼって … 明日また休みか。じゃあ、がっつりB♭あわせよう。