「HOW」
「WHAT」は探して見つけるものではなく、自分で決めてしまえばそれが「WHAT」になる。
~ 焼き鳥屋なら、壁のメニューひとつにしても、字の大きさはこれでいいか、どこの席からも見やすいのはこの高さか、きれいに拭いたほうがいいのか、それとも少し油が着いていたほうが年季が入っていて美味しくみえるんじゃないかという具合に、考えることはたくさんある。そういうことの一つひとつにものすごく気を使い、メニューを何種類も用意し、毎日貼る位置や角度を少しずつ変えるくらいのことをするのは、商売人なら当たり前のことだ。
成功するかどうかの大部分は、そういう工夫や努力の量によって決まるのであって、焼き鳥屋とラーメン屋のどちらを選ぶかというのは、本質的な問題ではない。極端なことをいえば、成功さえしてしまえば、なんで焼き鳥屋を選んだのかという理由自体、どうでもいいということになってしまうのだ。
若い人が、自分の適性に合った仕事をしたいといったり、あるいは、仕事がうまくいかないのは自分に向いていないからと言い訳したりするのも、これとまったく同じ。WHATを探すという発想をしているからそうなってしまうのである。
会社を辞めて小説家になりたいけれど、自分には適性があるかどうかわからないと悩むことくらいムダな時間はない。人生は短い。そんな暇があったら書けばいいのだ。どんどん書いて、ありとあらゆる新人賞に片っ端から応募する。百も二百も出せば、必ずどこかの編集者の目にとまるだろうし、それだけ書いてもどの出版社からも声がかからなかったら、そのとき初めて、自分には小説家の適性がないのだと判断すればいい。それを、ひとつ二つ書いたくらいでは、適性もなにもあったものではないだろう。でも、現実にはそんなことで悩んでいるやつが多いのだ。
(坂本桂一『頭のいい人が儲からない理由』講談社) ~
行きたい大学があるなら、つべこべ言わずにまずやること。
別にオープンキャンパスに行って確認しなくても、そこは君の行くべき大学だ。
行きたい大学が決まらないなら、つべこべ言わずにまず偏差値あげること。
それを探すためにオープンキャンパスに行くのは、「自分探し」と称してフリーターを続けるのと同じくらい同じくらい不毛なことだ。
高校卒業時まで、勉強して、努力し続けて、がんばり続けて、やりまくって、力をつけ続けて、最終時点で入学できる最高のところに入る。そしたら、そこから「HOW」だ。
「本当の自分」はどこにも転がっていない。旅に出て出逢えるものでもない。
自分の部屋でひたすら本を読む方が、よほど自分に向き合える。
そして行きたい大学が見つかったら、オープンキャンパスの日など関係なく行ってみればいい。 その方が大学の本当の姿が見える。しつこいけど、もう一度言う。まず力をつけなさい。
ひたすら勉強に取り組んでない人には、行きたい大学、やりたい勉強は見えてこない。
と書き終えて、「食べて、祈って、恋をして」を観にいったら、ぜんぜん逆の思想が描かれていた。
自分を見つけるために旅に出よう。
旅に出て、行きずりに男性とラブラブになって新しい人生を見つけようとという、一体誰が共感するのだろう、と疑問を持たざるを得ない作品だった。
それにジュリア・ロバーツさん、いつのまに、こんなにお老けになられたのだろう。ちょっとかわいそう。
バリとか行かなくたって、一回呑みにつきあってくれれば、もっと何倍も気の利いたセリフをシャワーのようにあびせてあげるよ、と言いたいけど、でもシチュエーションは大事なのだろうな。
同じセリフでも、だれが、どんなトーンで言うかでまったく受け止め方は変わる。
この音符はこう吹こうという言葉も、おれが言うのと、ディレクターの先生がおっしゃるのとでは、まったく受け止め方が異なるから。
旅は、自分の知らなかった現実と触れられるという点で、自分をかえる可能性をもつものではある。
中途半端に行きやすいところに行くだけなら、本を読んだ方が、よほどとんでもない世界に触れられるとも言える。
それは勉強でも部活でもそうで、勉強はやればやるほど未知の世界の存在に気づけるようになるし、部活もハイレベルな戦いに入っていけばいくほど、次元のちがう世界がみえてくる。
そのためのだんどりをしているつもりなのだが、目先の楽しさにとどまろうとする力に抗うのが難しいようで、そこがもどかしい。
「WHAT」は探して見つけるものではなく、自分で決めてしまえばそれが「WHAT」になる。
~ 焼き鳥屋なら、壁のメニューひとつにしても、字の大きさはこれでいいか、どこの席からも見やすいのはこの高さか、きれいに拭いたほうがいいのか、それとも少し油が着いていたほうが年季が入っていて美味しくみえるんじゃないかという具合に、考えることはたくさんある。そういうことの一つひとつにものすごく気を使い、メニューを何種類も用意し、毎日貼る位置や角度を少しずつ変えるくらいのことをするのは、商売人なら当たり前のことだ。
成功するかどうかの大部分は、そういう工夫や努力の量によって決まるのであって、焼き鳥屋とラーメン屋のどちらを選ぶかというのは、本質的な問題ではない。極端なことをいえば、成功さえしてしまえば、なんで焼き鳥屋を選んだのかという理由自体、どうでもいいということになってしまうのだ。
若い人が、自分の適性に合った仕事をしたいといったり、あるいは、仕事がうまくいかないのは自分に向いていないからと言い訳したりするのも、これとまったく同じ。WHATを探すという発想をしているからそうなってしまうのである。
会社を辞めて小説家になりたいけれど、自分には適性があるかどうかわからないと悩むことくらいムダな時間はない。人生は短い。そんな暇があったら書けばいいのだ。どんどん書いて、ありとあらゆる新人賞に片っ端から応募する。百も二百も出せば、必ずどこかの編集者の目にとまるだろうし、それだけ書いてもどの出版社からも声がかからなかったら、そのとき初めて、自分には小説家の適性がないのだと判断すればいい。それを、ひとつ二つ書いたくらいでは、適性もなにもあったものではないだろう。でも、現実にはそんなことで悩んでいるやつが多いのだ。
(坂本桂一『頭のいい人が儲からない理由』講談社) ~
行きたい大学があるなら、つべこべ言わずにまずやること。
別にオープンキャンパスに行って確認しなくても、そこは君の行くべき大学だ。
行きたい大学が決まらないなら、つべこべ言わずにまず偏差値あげること。
それを探すためにオープンキャンパスに行くのは、「自分探し」と称してフリーターを続けるのと同じくらい同じくらい不毛なことだ。
高校卒業時まで、勉強して、努力し続けて、がんばり続けて、やりまくって、力をつけ続けて、最終時点で入学できる最高のところに入る。そしたら、そこから「HOW」だ。
「本当の自分」はどこにも転がっていない。旅に出て出逢えるものでもない。
自分の部屋でひたすら本を読む方が、よほど自分に向き合える。
そして行きたい大学が見つかったら、オープンキャンパスの日など関係なく行ってみればいい。 その方が大学の本当の姿が見える。しつこいけど、もう一度言う。まず力をつけなさい。
ひたすら勉強に取り組んでない人には、行きたい大学、やりたい勉強は見えてこない。
と書き終えて、「食べて、祈って、恋をして」を観にいったら、ぜんぜん逆の思想が描かれていた。
自分を見つけるために旅に出よう。
旅に出て、行きずりに男性とラブラブになって新しい人生を見つけようとという、一体誰が共感するのだろう、と疑問を持たざるを得ない作品だった。
それにジュリア・ロバーツさん、いつのまに、こんなにお老けになられたのだろう。ちょっとかわいそう。
バリとか行かなくたって、一回呑みにつきあってくれれば、もっと何倍も気の利いたセリフをシャワーのようにあびせてあげるよ、と言いたいけど、でもシチュエーションは大事なのだろうな。
同じセリフでも、だれが、どんなトーンで言うかでまったく受け止め方は変わる。
この音符はこう吹こうという言葉も、おれが言うのと、ディレクターの先生がおっしゃるのとでは、まったく受け止め方が異なるから。
旅は、自分の知らなかった現実と触れられるという点で、自分をかえる可能性をもつものではある。
中途半端に行きやすいところに行くだけなら、本を読んだ方が、よほどとんでもない世界に触れられるとも言える。
それは勉強でも部活でもそうで、勉強はやればやるほど未知の世界の存在に気づけるようになるし、部活もハイレベルな戦いに入っていけばいくほど、次元のちがう世界がみえてくる。
そのためのだんどりをしているつもりなのだが、目先の楽しさにとどまろうとする力に抗うのが難しいようで、そこがもどかしい。