「進路」というプリントは学年別編集だが、教員には全員に配布される。
紳助氏ネタの文章を読んだ他学年の先生が、「これでクラスで読み上げていいですか」と声をかけてくれたので、「Why not!」と答えて、DVDも貸すことにした。きっと喜んでくれるだろう。
あのDVDの最後のとこは泣けた。
~ 僕だって昔は君たちと一緒だったんです。一緒一緒、まったく一緒。パチンコ行って、二千円負けて、「なんでパチンコ行ってしもうたんやろ」って半日泣いていた。そんな僕が今は金をいっぱいもっているんです。
でも、夢が叶っていった分、残念ながら夢を失っています。
だから今、僕が君たちと一対一でお酒を飲んで夢を語り合ったとしたら、それは残念ながら君らの勝ちです。
僕が君たちに一個だけ負けてるとしたらそれやな。それを思うと泣きそうになるわ。十億で代わってくれるのだったら、代わってもらいたいもの。
… 神様が、「今、お前に夢と若さ売ったるで」と言うんやったら、十億払うでしょう。お金なんてなくたっていい、十億払います。 ~
て言って、目頭を少しおさえていた。
さすがに10億は用意できないけど、1億くらいなら無理に借金して、たとえば30年前にもどれるならもどってみたい気はする。ほんとにもどれるなら、10億だって全然高くないと自分も思う。
だから「ということは、いま自分ら十億円の価値を持っているということやで」という紳助氏のよびかけも実に納得できるのだ。
でも、30年前の自分には理解できなかった。
理屈でわかったとしても、何か行動にうつすことはできなかっただろう。
でもね、それが若者だ。
その「できない度」も10億の価値をかたちづくってもいる一つの要素なのだ。
ほとんどの若者がその価値に気付かないまま年老いていく。ざまあみろだ。うそうそ。
そこに文学がうまれる契機もあるのだろう。
別の先生が、島田紳助っていう名前を伏せ字にして印刷した方がいいんじゃない、と言ってた話も聞いた。
親御さんから何か言ってこられないかと心配したそうだ。
ご本人はお気づきではないだろうが、そうやって念のためにふたをしておこうという感覚は、島田氏が暴力団にとりこまれていく心性と本質的に同じなのだろうと思う。