全学年河合模試。授業の予習が最も進むはずの模試の試験監督なのだが、睡魔とたたかい今一歩有効に使えなかったのが残念。
やまぐち先生に「最近おもしろい映画観た? ゴーストラーターはまあまあだったよ」と言われて、くーっ、最近映画観てねえ、なんかほどよい時間帯のが、といっても練習後の上映で、かつ帰宅して呑める時間が残っている程度のはないかなと探して、新座で「日輪の遺産」を観てきた。
泣けた。いかにも浅田次郎らしい作品だった。
マッカーサーに通訳として仕えたミッキーカーチス、勤労女子学生で生き残った八千草薫の回想で、終戦間際から戦後にかけての日本史の一断片が描かれる。
日本軍がマニラで強奪した、現在の価値に直すと200兆円になると考えられる財宝。
戦況ままならず、早晩日本は負ける、その後の復興に必要な資金として、その財宝を隠匿しておく必要があると考えた軍部の一勢力があった。
もちろん反対派もいる。日本人全員が死ぬまで聖戦を続けようと考える者もいる。
そんな中、陛下がポツダム宣言の受諾を決意された8月10日に財宝隠匿の使命を受けた三人の将校が、勤労女子学生には兵器だと偽って、山中への財宝移動作業を行わせる。
女子たちはそれが財宝だとは知らない。
本土決戦になったとき、この秘密兵器が憎き米軍たちを焼き払ってくれると信じている。
彼女たちの作業が無事おわり、明日は終戦の玉音放送というとき、このミッションを指令していた堺雅人たちに非情な命令が下される。
その命令は果たして実行されるのか。
いちおう、中身はここまでにしておきますが、「でてこい、ニミッツ、マッカーサー」という女子たちの明るい歌声がいつまでも頭に残っている。
この出来事の哀しい結末を知ったなら、若い人たちは「なんか、ウソくさくない?」なんて思うかもしれない。
お国のために、命捨てられる? って。
たしかに、そのとおりだ。今の自分ならそう思う。
でも、この時代はそうではなかったのだ。
彼女たちにかぎらない。
お国のため、家のため、愛しい人のため、自分の命を投げ出した人々がたくさんいた。
マッカーサーがそんな日本人の姿をみて驚愕し、この国はとんでもない復興を果たすのではないかと述べるくだりがある。
できすぎた場面ではあるが、そんな日本人だったからこそ、この地図上ではどこにあるかわからないようなアジアの小国が、世界中を敵にまわして一歩もひけをとらなかった時代があったことも納得できる。
その後の経済大国への発展ぶりにしても、世界的な視野でみたら、ふつう外国の人はなんで? って思うだろう。
あとの世代のためにと死んでいってくださった人たち、その後戦後の復興を果たしてくれた人たち、そういう方々の遺産を食いつぶして生きてないかな、いまのおれらって。