昨日は21:00過ぎまで学校にいた。
学校自体は、授業が3時間で打ち切りになり、部活もなしで臨時休校となった。
教員も帰っていいというお達しが出たのだが、帰宅しても明るいうちからビアを呑みながら台風ニュースを見てるだけになってしまう。
ここはがっつり仕事だろ、と残ることにした。
職員室のテレビでは台風のニュースが流れ続けている。
震災後に新調されたテレビがはじめて活用された。
そうやってニュースを見続けるのは、震災以来だが、あの時とはまるっきり気分がちがう。
数時間経てば通り過ぎていく台風と、どうなるか全くわからなかった原発の報道とではちがってあたりまえなのだが、あのときはほんとに不安だった。
はやくヘリがとんでほしい、でもヘリからのバケツで水をかけたところで根本的解決にならないことは日本人みんながわかっていて、それでも祈るような気持ちだった。いや、祈ってたか。
陛下のおことばを拝聴しながら、まさか自分が生きているうちに玉音放送に接するなんて、とも思った。
天皇制と自衛隊。戦後の歴史のなかで、その存在に疑問をなげかけられることの最も多かったこの二大制度がなかったら、日本は終わっていた。
夕方近くになると、電車が次々と運休し始める。
職員室からどんどん人が減っていく。
今のうちに帰ろうという人、どうせなら通り過ぎるまでいるかという人。
テレビでは、その判断ができないうちに電車が止まってしまった状況だろうか、人があふれはじめたターミナル駅の様子が撮される。
でも、なんかせっぱつまった雰囲気ではないように見えた。
たいがいのことは、震災の時に比べたらなんでもないという感覚で、これからの日本人は生きていけるのかもしれない。
「放射能が怖いから花火はうつな」などとほざくのは、ほんの一部の理解不能な人たちだけなのだろう。
甲府付近を通過した台風が埼玉県入りする。
テレビの地図でみると、中心は飯能と秩父の間らへんにあるように見えた。
そんなふうにわかるなんて、ほんとに埼玉人だと自覚する。
たぶん、地方の人は全国ニュースで見てて、埼玉、栃木、群馬の区別はつきづらいだろう。
体育館横のゴミ箱が倒れ、空き缶がちらばる音がする。
そんなに入ってなかったと思うのだが、全部きれいにしておくべきだった。
20:00過ぎ、急に風がおさまり、雨がやんだ。
こんなに通り過ぎた感があるとは。
けっきょく机まわりを整理したぐらいで終わってしまったなと思いながら外に出ると、空は明るく、風はあたたかいが湿気が減った。
南古谷ヤオコーに寄る。最近高くて買えなかった国産ブロッコリが198円だったので奮発し、お弁当用に4割引の冷食、半額になったお総菜を一品だけと、ふなぐち菊水一番しぼりの缶などを買って、よく顔をあわせるおねえさんのレジに並ぶ。
「もうやんでますぅ?」と尋ねるので、「うん、だいじょうぶ、やっぱりお客さん少なかった?」などと話し、こういう会話をきっかけにラブがめばえたなら「幸せの黄色いハンカチ」的だなと思ったが、それはない。
ほんとに可能性ゼロだろうか。予想もしてなかったことが起こりうることを学んだ私たちは、可能性自体を否定する必要はないのではないか。
しかし、受身では何もはじまらない。
自ら一歩踏み出すところに希望は生まれる。
A部門に出場しなければ、普門館のステージに立つ可能性はない。
A部門に出場さえしてれば、その可能性がゼロではなくなる。
スーパーの袋を下げて駐車場に向かうわたしの目に、普門館の黒いステージが浮かんでくる。
黒光りするその上に金管楽器がかがやいてみえる。
思うに希望とは、もともとあるものも言えぬし、ないものとも言えない。
それは地上の道のようなものである。
もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ(ねえ、はやく仕事にもどれば?)。