吉田修一氏の『平成猿蟹合戦図』(朝日新聞出版)は、『悪人』より数段楽しく、今まで読んだ吉田作品のなかで一番おもしろかった。
物語の最後の場面で、主人公(かな)美月の幼いこども瑛太が、「猿蟹合戦」が好きという場面がある。
~「んだなー」
両親はまったく秋田弁を話せないのに、瑛太だけはもう話せるのが面白い。
「なんでもいいど」
「せば、お猿さんど蟹さんが出てくる話っこあるでしょ? あれがいい」
「瑛太、あの話っこ、好ぎだが?」
「うん、好ぎ」
「どんたどごろが?」
「んだなー、スカッとするべ?」
「スカッど?」
瑛太の答えにハンドルを握る誠先生まで笑い出す。
サワは手を伸ばして瑛太の頭を撫でた。
「 … スカッどする話さは毒っこ入ってらど」
頭を撫でるサワの手を、「僕、もう赤ちゃんでねでば!」と瑛太が払う。
「ほんだなー、もう瑛太は赤ん坊(オボコ)でねぇもんなぁ」
三人を乗せたワゴン車は、長木川沿いをゆっくりと走っている。見晴らしのよい風景の向こうに鳳凰山の大文字がくっきりと見える。 ~
瑛太の母親の美月は、長崎の離島の出身。
高校を中退して地元のスナックで働いているときに知り合った朋生が、瑛太の父親だ。
博多のスナックをやめて勝手に東京に行ってしまった朋生を探そうとする美月が、歌舞伎町の路地で赤ん坊をかかえて座り込んでいるところから物語は始まる。
で、いろいろあって、最後は秋田ね(どんだけはしょるの)。
あるひき逃げ事件を目撃してしまった朋生の友人純平、ひき逃げ犯の身代わりになって服役する兄とその家族、実際に事件をおこしたプロのチェロ奏者とマネージャー、歌舞伎町のスナックのママさんや裏社会の人々。
ひき逃げ事件の真相があきらかになるとともに、最初バラバラに見えた人たちの糸がつながっていき、裏の世界の力もかなり得ながら、最後にはけっこうスカッとするお話だった。
現実にここまでうまくいくかなとも思える部分もあるが、すべての登場人物にリアリティがあるので、最後まで破綻なく構築された名人芸的小説だと思った。
スカッとする。でも「スカッどする話さは毒っこ入ってらど」
なるほど現代の「猿蟹合戦」だ。
臼が落ちてきて猿を殺し親蟹の仇をとる「猿蟹合戦」を、残酷だとして、すこしやわらかく書き直している本が今あるらしい。
子どもに、人の世の残酷さをそれとなく感じさせておくのは実は大事なことで、そういうのを大人がわからなくなっててはいけない。
夜呑んだあとに読んでて眠くならなかった最近にしては希有な本です。