牛乳呑んで落ち着いてみたら、こんな言葉がすっと入ってきた。
~ この人はそれをやらないわけにはいかないのだ、ということだ。たとえ医師が止めたとしても、ジムのトレーナーが止めたとしても、友人たちが止めたとしても、家族が止めたとしても(もちろんみんな多かれ少なかれ止めた)、この人はそれをやらないわけにはいかない。なぜなら小澤さんにとっては音楽こそが、人生を歩み続けるための不可欠な燃料なのだから。極端な言い方をすれば、ナマの音楽を定期的に体内に注入してあげまいことには、この人はそもそも生命を持続していけないのだ。自分の手で音楽を紡ぎ出し、それを生き生きと脈打たせること、それを人々の前に「ほら」と差し出すこと、そのような営みを通して--おそらくはそのような営みを通してのみ--この人は自分が生きているという本物の実感を得ているのだ。誰にそれを「やめろ」と言うことができるだろう? (村上春樹・小澤征爾『小澤征爾さんと、音楽について話をする』) ~
昨年、食道癌の治療に専念するために長期間仕事を休まれた小澤征爾氏は、年末に復活コンサートを行ったあとに今度は腰をいためて静養を余儀なくされた。
その後、ご自身が主宰する「国際音楽アカデミー」でのお仕事ぶりを見たあとの村上春樹氏の感想が上記のものだ。
そのときのコンサートが素晴らしく感動的であったことは言うまでもない。
しかし、普通に生活することさえ大変な年齢と身体の状況のなかで、なぜにそこまでして若い音楽家を育てようとするのか、指揮台に立ち続けるのか。
それがほぼ「生」に等しいからだ。
音楽ができなかったら「自分は自分でなくなる」のだ。
そんなの自分にあるかなあ … 。