水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

センター小説 第6問

2011年12月31日 | 国語のお勉強

 地球を去っていく宇宙人ポールは、失われゆくアメリカ的父性の象徴といえるかもしれない。
 人はしかし、別れを経験して成長する。
 その人に頼らずに自分で生きていくことを決意させられるから。
 いろんな映画が、病気や戦争による「死」を描いたり、宇宙人やヴァンパイヤとの「別れ」を描いたり、許されない関係での恋愛を描いたりするのも、それらを通して失うものと失うからこそ得られるものへの愛おしさを表そうとしているのだろう(かっこいい!)。


 映画も小説も、説明書ではなく表現なので、何が「どう」表現されているかに気づけると楽しい。
 だから、センター試験の二番(小説)の第6問で、ここ数年必ず表現に関する問題がでるのは、筋としては正しいことだろう。
 「国語総合」「国語表現」の二科目がセンター国語の試験範囲と設定されているので、平成27年までは、この問題は出続けるはずだ。
 ただし、表現問題もパターンは決まっている。
 ポイントは大きく分けて次の四つかな。

 1 視点・語り手   2 比喩・象徴   3 時系列   4 文体


1 視点・語り手

 主人公が「私」(一人称)なのか、「彼」(三人称)なのかをまず確認する。
 「私は~」と語られた作品を「一人称視点」の小説といい、「○○は~」と三人称で語られている作品を「三人称視点」の小説という。
 「一人称視点」は、その主人公の視点から世界を見ているので、他の登場人物の心情は、主人公の想像で語られる。悲しそうに「見えた」と語られる。
 「私は」とはじまったら、基本的に他の登場人物の視点に入っていくことはない。全くないこともないけど、センター小説には登場しないだろう。
 「三人称視点」の場合、主人公、もしくは語り手にあたる人物の視点のみで語られる「限定視点」と、どの登場人物の視点にも入り、すべてを見渡したところから語る「全知視点」とがあり、後者は「神の視点」とも言われる。
 一人称か三人称かは読み始めればすぐわかるので、三人称の場合だけ、視点が移動するかどうか読みながら意識し続けてるといい。

 ちなみに2009年の問題。

 ① この文章は、登場人物である「彼」の視点に寄り添いながらも、必要に応じ周りの人物の視点も取り入れて語られているので、それぞれの人物の心理が分かりやすくなっている。

 という選択肢があるけど、問6にたどりついたときに、「えっと他の人の視点てあったっけ?」と本文を読み直していたのでは、時間が足りなくなる。「彼は … 」ではじまるから「三人称視点」、そのままずっと変わらないよね、と読めばいい。

 「一人称視点」の場合、今の「私」が、事件がおこった当時の「私」を語るという構造になる。
 いろんな人の心情に入り込むことはできないが、自分の心情については相当分析的に語ることができるという特徴がある。
 だから読み手の側も、「私」の心情につかりやすい。
 センター試験の場合、「視点」とか「語り」とか直接言わない選択肢もつくるので、「あっ、これは視点の話かな」と気づけるといいと思う。

 2008年の問題。

 ② 「落ち着いた今の気分でその時の事を回顧してみると」とあるように、出来事全体を見渡せる「今」の立場から、当時の「僕」の心情や行動について原因や理由を明らかにしながら描いている。
 ③ 「僕」自身の心情を回顧的に語る部分に現在形を多用することで、別荘での出来事から遠く隔たった現在においても、「僕」の内面の混乱が整理されないまま未だに続いていることを示している。
 
 ②は、一人称の語りの性格をよく表したもので、これが正解。
 ③は②の逆を言っている。「「僕」の内面の混乱が整理されないまま未だに続いている」という、今の「私」が成り立たないような言い方になっていて、不正解だ。


2 比喩・象徴

 比喩、象徴は「たとえ」。
 抽象的な考えや、表現しにくい内容を、具体物に置き換えることで、感覚的に理解させようとする表現だから、これぞ小説表現の真骨頂と言えるだろう。
 比喩が存在しているのかどうかはわかる。
 大事なのはその効果かもしれない。

 2006年の選択肢。

 ③ 「硝子の触れ合うような音」や「夢の前に立ちすくむ」などの比喩的表現が多用されることで、登場人物の繊細で鋭敏な性格が鮮やかに印象づけられている。
 
 これは、まさしく比喩の役割をきちっと述べてて正解。
 でも2007年の

 ① 「鶏ガラみたいにほそい首筋」「まだ枕を話しているだけで本編に入っていない噺家みたいに座布団から垂直に頭がのびていて」のように、「陽平さん」の姿が比喩表現を用いて描写されることによって、「陽平さん」を見つめる「絹代さん」の特異な感性が強調されている。

 のように、「特異な感性」の「強調」とは言えない。
 比喩は決して強調表現ではない。

 ちなみに2011年の選択肢に

 ② 35行目の「〝市役所〟」は、梶氏を勤め先の名称によって指し示す擬人法であり、梶氏が「市役所」を代表して公害対策に日々奔走する役人であることを強調している。

 とあったが、「梶氏」を「市役所」と呼ぶのは擬人法ではなく「換喩」とよばれる比喩の一種だ。

 羅生門が、朱雀大路にある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二、三人はありそうなものである。(羅生門)

 で学んだ表現法。「市女笠」「揉烏帽子」とはそれをかぶる女や男を、その人の特徴的な外見や性質一語で言い換えて表している。
 そっか、羅生門では「にきび」が「若さ」の象徴であることを学んだが、そういうのを忘れずにいると、センターを解く力になる。

 擬人法では、2008年に

 ⑥ 「自然が反対を比較する」「会話を僕の手から奪った」「自然から使われる自分」などの表現から、擬人法を用いることで、「僕」が抽象的なものごとをわかりやすく説明しようとしていることがわかる。

 という選択肢があった。
 これは、「自然から使われる自分」が擬人法とは言えないし、「擬人法」が「抽象的なものごとをわかりやすく説明」するとは言えない。比喩は、あくまでも感覚にうったえる表現だ。


 3 時系列

 小説は、ストーリーが時間の流れ通りにすすまないことも多い。
 一直線ではない。回想シーンに注意しよう。

 2010年

 ③ 本文では、県大会の前日までのできごとが克久の経験した順序で叙述されており、このことによって登場人物の心情の変化が理解しやすくなっている。

 のように、順番に書かれてないことを見つけられるかどうかの問題も出た。

 ではなぜ小説は時系列が一直線ではないのか。
 それは、小説だからとしかいいようがない。
 小説は論理ではなく文学であり、人間の感情がベースだから、一直線でない方が自然だと言える。
 人はときどき妄想したり、思い出し笑いをしたるするが、そういうものだと思えばいい。
 つまり、人間の意識の混沌としてすっきりしない部分が表現され、「あの時こうした方がよかったのか」という後悔の念なんかがうまく表現できるのだ。
 時間的に異なる複数の場面が描かれるとき、それを専門用語で「重層的」と言ったりする。

 2007年の、

 ⑥ 「陽平さん」「陽平先生」「絹代さん」など、人物同士がふだん呼び合っている名称や、「ひとりもあらわれなかった」「いささかひろすぎる」など、平仮名書きが多用されることによって、大人の世界に子どもの視点が導入され、物語が重層的に語られている。

 の「重層的」は何が「重層」なのかよくわからないが、次の2009年のは正解選択肢だ。

 ⑤ この文章は、雨のなか庭にたたずんでいる時点から引越しの日を振り返り、さらに父の過去や引越しの手続きがあったことを振り返るというように、時間を重層化させた構成になっている。


4 文体

 これはいろんな要素が含まれている。
 文体が「やわらかい」とか「かたい」とかよく言われるが、使われている語彙が規定する部分は大きい。
 とくに「漢語と和語」の使われ具合いだ。
 一般に漢語が多いと分析的、観念的、抽象的な表現になりやすい。
 和語や平仮名が多いとその逆。
 でも、さっき書いた2007年のように、「平仮名が多いから子ども視点だ」とは言えない。

 「ざけんな、ちょーむかつく!」は、心情をそのまま書いた表現で、「彼が抱いた猜疑心は … 」と書くとかたくなる。

 2008年の、

 ④ 「凝結した形にならない嫉妬」「存在の権利を失った嫉妬心」などのように、漢語や概念的な言葉で表現することによって、「僕」が自分の心情を対象化し分析的にとらえようとしていることがわかる。

 は、正解選択肢。

 あと問われるのは会話文の扱い。

 2007年の選択肢に

 ③ 「おばちゃん、おばあちゃん、さよなら、と言って帰っていく」「触ってごらん、と言われるままに」などでは、かぎ括弧を用いずに会話の内容が示されることによって、現実感が生み出され、会話を発する人物が生き生きと描き出されている。

 とある。かぎ括弧があるかないかで、「現実感が生み出され」が生み出されるかどうかの判断はしにくい。
 地の文が少なくて会話文ばかりで描かれているなら、全部にかぎ括弧がついていても、臨場感は生まれると思う。
 かぎ括弧のあるなしを、表現効果として言えることがあるとしたら、直接言った言葉か、内面の心情かをあいまいにするという点だろう。
 かぎ括弧がなくなることによって、語り手の存在が意識されなくなり、読者を主人公の内面にひきこんでいく効果が … 、なんて書いてあったら正解選択肢になるだろう。

 あと、2006年の

 ⑥ 会話文中に「……うん。泣いた、僕」のように「……」が使用されることで、裕生と尚子の会話に余韻が与えられ、二人が徐々に親交を深めていく様子が細やかに写し出されている。

 とか、2009年の

 ② 本文中、「実際は土地を売ったのだが、彼はどうしても家を売った、と発想してしまう」の前後に( )がつけられているのは、土地売買の現実を拒絶しようとする「彼」の思いを読者に説明するためである。

 みたく、…… や ( ) の効果を聞いているのがある。
 でも、そんなの説明しづらいよね。
 こういう選択肢は通常、「どう」ではなく「何を」の部分で間違いになっているので、「内容からみてだめだからだめ」と×にすればいい。

 表現問題は、「aという表現によって」「xという内容」を表している、という選択肢になる。
 「xという内容」が本文内容と違っていれば当然不正解であり、実はこれでおとせてしまう選択肢の方が多いのだ。

コメント
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