日本では、癌告知が本人ではなく家族に知らされることが多く、それは他の国では考えられないがなぜか、という評論を教科書で読んだ。小浜逸郎先生の「癒しとしての死の哲学」という文章だ。
西洋的・近代的な「個人」というものが日本には成立してなくて、他人との関係性のなかでしか自己の存在確認をできない日本人のあり方に根本原因があるという文章だった。
その中に、自分に起こるすべてのことを自分の責任として受け入れなければならない西洋人は、かえってつらいのではないかという一節があって、なるほどと思った。
だから、癌に罹ったとき、個人がそれを受容していくための社会的システムがたいへん充実しているという。
ホスピスでの末期医療やセラピー、そして教会。
なので、主人公のアダムが癌告知を受けたあとに、セラピストのところへ心理療法を受けにいく場面を観て、なるほどそういうものなのかと納得した。
ただし、このセラピストのキャサリンはまだ大学院生(だったかな)で、アダムが三人目の患者であることがわかる。
当然まだ仕事に慣れてなくて、自分に自信がなくて、習って身につけたばかりの知識でアダムを類型的に扱おうとし、マニュアルどおりのセリフを言うばかりで、かえってアダムをイラつかせたりする。
でも、それは彼女が真面目で、なんとかアダムの力になりたいという思いがそうさせているのがわかり、アダムから離れていってしまう恋人との対比が明らかになっていくと、この不器用なセラピストがだんだん愛しくなってくる。
ていうか、かわいいし。
それはアダム自身も同じだった。
ていうか、この子知ってるし。
見終わって調べたら、そうだよ、ジョージクルーニーの部下だった女の子だ。
ふつうに洋画を観る人にとってはとうに有名な女優さんだろう。
アナ・ケンドリック、萌えぇ。
この女優さんを観るだけでも、この作品を観る価値はある。
アダムを演じた人も、よかったな。
5年生存率は50パーセントと聞き、信じられないくらい動揺するものの、もっと動揺するであろう母親にどう伝えたらいいか悩んだり、恋人にあたってしまう自分を嫌悪したり、周囲の変化を敏感に感じ取りながらもそれを表面に出さないように努力したりするといった、きめこまやかなお芝居を自然にしている。
アダムの親友もいいな。病気をネタにしてナンパしようと誘う、ヤることしか考えてない人間のようで、ある日アダムが彼の家にいったら、「癌患者とのつきあい方」なんて本が隅においてあったりして。
さて、抗ガン剤の効果があらわれずに、外科的手術でガン細胞を切除することになる。
失敗の危険性もある手術だ。
そんなとき、アダムが試練を乗り越えていく力になるのは、やはり家族であったり、親友だったりする。
そして牧師さんやセラピストではなく、セラピストではなくなりつつあったキャサリンだった。
小浜先生がおっしゃるように、日本的な人間関係の方が、ほんとうは人を支えてくれるのではないだろうか。