水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

知命

2011年12月09日 | 日々のあれこれ

 昨日が開戦記念日で、もう年末だ。
 「五十にして天命を知る」と孔子が語ったことから、50歳という年齢を「知命」という。
 一般的には、天から与えられた使命を50歳のときに知ったと解釈される。
 ふーん。孔子おそくね?
 自分はもっと前から気づいていた。
 気づいてはいたものの、それをはっきりとした言葉でつかんだのは今年であったから、まさに知命の年になった。
 それは震災後に被災地にお入りになられたときの恐れ多くも陛下のお言葉だ。
 子ども達を誘導して津波から救った小学校の先生に「導いてくださってありがとう」とお声をかけられたのだ。
 教員になって二十数年、残された時間は減る一方だが、なんとかこの仕事を全うさせていただこう、目の前にいる生徒さんをしっかり導いていこうと思うのである(なんかあった?)
 ただ難しいのは、「こうした方がいいよ」「こうしなさい」と言ったからといって聞いてもらえるわけではないことだ。
 自分が高校生だったころを思えば、なおわかる。
 聞いてもらえないどころか「先生面で、上から目線で、えらそうに言ってんじゃねえよ」と反発されることもある。
 「おれは自分でそうしようと思ったんだよ、他人のおまえに何がわかる、おれたちの気持ちなんかわかんねえだろ」と反論されることもありうる。
 正直に言えば、気持ちはたいがいわかる。
 何をやりたくなくて、何から逃げようとしているかも大体わかる。
 それをどれくらいわかってないかも、何となくわかる。
 自分も通ってきた道だから。
 でもうかつに「気持ちはわかるよ」なんて猫なで声で発したら、なおさら距離はひらく。
 なんらかの方向に導けるとしたなら、この人の言うことなら話を聞いてやってもいいかなと思ってもらえる人になることだろう。
 ある人の話を聞くかどうかは、その内容よりも、その人が誰であるかという要素が大きい。
 何を言うかより、どう言うかであることも大きい。
 自分の言葉をどれくらい聞いてもらえるかに興味はあるが、前ほどせっぱつまらなくなった。
 伝わることもあれば伝わらないこともある。
 そう思えるようになったので、目の前の生徒さんが発する言葉に対して、かっかする度合いも減ってきた。
 60歳にならなくても「耳順(したが)う」状態になれるかもしれない。

コメント
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