玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

日米戦争 ―なぜ、東條が首相になったのか―⒆

2022-11-28 14:16:33 | 近現代史

近衛が荻窪の荻外荘に東條陸相を呼び、支那からの軍隊の撤退を勧めたが、東條は頑として首を縦に振らなかった。

一年前の5月には陸軍参謀本部では支那の兵力削減を検討していたが、ドイツの電撃戦を知って、突如南進論が噴出した。その幻影への突進はもう止めれなかったのだろう。

結局、いつもの通りに、近衛は政権を投げ出した。しかし、彼の中で後任は東條ではなく東久邇宮と想定していた。

ところが、木戸内大臣は意外にも東條を推挽した。他の重臣たちは宇垣一成を推していたが、彼は意外なことに、大将でもない中将の東條を抜擢した。木戸は破格の推挽で東條を操ろうとした。

木戸は近衛の推薦で秘書官長になり、湯浅内大臣が推して後任になった。実は近衛も内大臣を狙っていた。近衛は自分が生来の弱気で、首相が勤まらないことを自覚していたのだろう。しかし友人の木戸に譲って、已むを得ず国家権力の闘争の頂点である首相の座に再度就いた。

木戸は近衛の恩義を顧みず、自らの権力の保身と強化に走った。『木戸日記』には東條推挽の重臣会議の記録が極めて少ない。ということは隠していることが多い訳である。

多分搦め手を使って重臣会議を黙らせたのだろう。それは天皇からの「虎穴に入らずんば虎子を得ず」との木戸への誉め言葉から大体は推察できる。

おそらく、日米開戦の白紙化を東條ならできると木戸は説明して天皇の賛意を引き出し、それを重臣たちにチラつかせたのだろう。

木戸は東條をあえて陸相兼任させて総理に就け、軍人政権の形を取って過激な中堅将校を黙らせた。

そして、東條には開戦の白紙化を天皇ではなく、木戸が言った。つまり天皇が一旦認めた開戦を自ら止めるとは言えない。此処は木戸が一旦泥をかぶった訳である。

しかし、結果は一時的に日米開戦の白紙化はできたが、結論は変わらない。結局木戸は天皇を騙したのである。

戦後の東京裁判で、コミンズ・カー検事は「木戸は内心では天皇を秘かに軽蔑の目をもって見ていたのが真実である」と、「木戸候は陛下の性格を知りつつ、それを悪用して戦争へと導いた」と力説した。

戦後、昭和天皇は御用掛の寺崎英成にこう言った。「原田日記は個々の事実に誤りあれど全体の流れは正し。木戸はその反対」と。昭和天皇の慧眼は恐い。(次回へ)

【参考文献:種村佐孝『大本営機密日誌』芙蓉書房、『木戸幸一日記(下)』東大出版会、藤田尚徳『侍従長の回想』講談社学術文庫、寺崎英成『御用掛日記』文芸春秋、等】

 

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