ネット徘徊していたらこんな広告にいくらでも出くわす。
だからいつの間にか馴らされてしまったというのだろうか。目パチクリのお嬢さんを見ても、あまり感動しなくなった。単に年を取ったから・・・だけではない。
ア~ア~な~るほど、ああやってやれば、あの娘がこんなに変わるのか・・・という実態を目の前で見せられることがある。電車の中、どうかすると向かい合ったシートで。
ああやって マツゲ巻くのか 知る電車 鴻巣 雷作
毎日新聞、万能川柳を引用させて頂いた。たまに乗る電車の中で見かける。
ちょうど私が利用する電車の時間帯が、夕方の仕事帰りや学校帰りの女性と重なるからかもしれないが、ものの見事に“ へんしーん ”する姿を見せて頂ける。
夢が壊されてあまり有り難くない。
それほどまでに、私自身をはじめ、男だろうと女だろうと、周囲の人間の眼など気にもかからないのだろう。己を美しく飾りたい欲望の前には盲目になるのかもしれない。
その美しさは残念ながら上辺だけの物で、内面的美しさ、奥ゆかしさなどのかけらも見られない。確かに目の前でまつ毛を巻き上げようと、パタパタはたこうと、紅を引こうと、直接的な迷惑を被るわけではない。それにしても、私の電車乗車時間はものの13分である。その間に見事生まれ変わる。神業に近い。
個があって、私があって、肝心な公が失われている。
これを若さの特権などと正当化せれることに、何の抵抗も出来ないのだろうか。
それより若さの本当の特権は、何にもしなくてもはち切れる素肌の美しさにあるような気がするけどね~~。
皆同じ顔に見えます。
そう言ったら、孫が「年を取った証拠」と言いました。
でもこの頃は彼も「俺も同じに見える」と言い始めています。
個性埋没のメイクがそのまま受け入れられているんですね。
一時、顰蹙をかった電車内での傍若無人なふるまい、まだ依然としてあるんですね。
嘆くのはこちらが歳をとったせいばかりとは言えないと思うのですが。
同じ日本人としてちょっと恥ずかしいんよ。
電車に乗った時に見た顔と、13分後に降りるときの顔がまるで別人。
同じ移動時間の過ごし方にも色々あるようです。
という私は、その変身ぶりを、チラッチラッと見ながら目的地に着いたわけです。
あー、タヌキになっていく~、へんなのーって眺めてる私です。
「個と私と公」
公の前には私・個の考えなど押し殺さねばならなかった時代がありました。
今は「個」が最前面なのでしょうか。
“まなざしを変えてみよう”と聞かせてみたい・・・。
公の前には、個も私も滅却しなければならない世界だったのです。
・・・だったのです・・・。過去形です。
今は、公の方が遠慮して引っ込んでしまって、私・個が大手を振ってまかり通ります。
ですから、公を優先する企業生活や団体生活に対応しきれなくて、というかガマンのかけらも、羞恥心もなくて、はみ出してしまう。
その結果、公が悪い、私の居場所がない・・・などとのたまう。そうかな~と。
羞恥心などみなどこかに、忘れてきてしまったのかもしれませんねその点は高齢者も反省するところアリですね
あれも、確か若い女の子でした。
若ければ何をやっても許されるって思っているのでしょうか。
そう思わせる大人の責任も大きくあるのではないかと思う自分も年のせいでしょうかね?
少子化で子ども同士のいさかいもなく、お利口さんばかりが多くなったのも、弊害ですね。
大人が、子どもの教育に対して、遠慮し過ぎの感があります。
企業の中ではそうはいきません。ですから勤めが長続きしないとか。
何が正統で、何が亜種なのか分りにくいですね。
ついでに、傍若無人な荒っぽいクルマの運転も。うら若き女性が目立ちます。
あまりにも子ども大事を考え過ぎて、何をやっても許される風潮は、ある意味怖いし危険ですね。
大人の言うことなど聞かない今の状態が続けば、この先どんな世の中に・・・??。