「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「最後にして欲しい!」

2024年12月19日 | カープ一喜一憂
これでもか、これでもかと目の前に突き付けられた今年の訃報の数々。
もうこれで今年の最後にして欲しいと神仏に願いあげたくなる訃報が今朝早くお隣さんから届けられた。今朝未明にお隣の奥さんが亡くなられた。享年81歳。
少し身体が弱く、数年前からいろんな病気と闘っておられた。特に晩年は心臓ペースメーカーを頼りに、ゆっくりな行動が目立っていた。
 
ここに引っ越してきて以来の直近のご近所づきあいだからおよそ30年。ご主人は私と同い年。何かにつけて話が合う気さくな人柄だったが、5年くらい前にあっさりとお浄土に召された。その後奥さんにはG・ゴルフにも誘い、なんとか太陽の下に連れ出そうと試みたが、少し気持ちの沈みが大きく、お家に籠りがちではあった。特にコロナ以降は、まるでお隣さんなのに顔を合わせて言葉を交わすことが極めて少なくなっていた。
そして意外や意外、帯状疱疹の悪化で入院された。その後色んな合併症に悩まされて入院生活が半年を越えていた。如何ともし難し、責めてお通夜・告別式に参列して焼香をさせて頂こう。
 
こういったことは、正確な数値で数え上げるべきではないと思っているのでアバウトではあるが、父方の最後の従兄弟、新潟の恩師、本社勤務時代の同僚などなど、我が人生の節々で大切な関りを持った人が多く逝ってしまった。次は我が身かなどと考えないことにしている。人それぞれの生老病死、誰が決めるものでもない。その時々を精一杯生きることこそ肝要。その中で不幸に出会えば涙を流し、喜びに出会えば満面の笑みを浮かべる。先ずは今年を生き、新しい年の様々にチャレンジする。今年の訃報はこれで最後にして欲しい。
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「渡り鳥いずこ」

2024年12月18日 | つれづれ噺
                
今年も隣の空き地にやってきて、せわしげに尾っぽをピコピコ震わせ、今ここに止まったと思ったら、カメラのシャッター切る間もない俊敏さであっちこち飛び回る。その名をジョービタキという。通称やあだ名は色々ある。子供の頃に聞いて印象に残っているのが「ヒンコチ」だった。今では主翼に大きな間白い円形模様があることから、紋付き袴の正装に見立てて「モンツキ」と呼ばれたりするちっちゃなちっちゃな渡り鳥である。

このちっちゃな体で東南アジアを舞台に寒い場所を求めて渡り歩くという。渡り歩くという点ではあの旅する蝶「アサギマダラ」こそもっとすごいことである。あの蝶がどうやって大洋を横断するのか、何のために大洋を飛び越えるのか、そのスタミナ・馬力などがどこに隠されているのか、考えれば考えるほど世の中に不思議は幾つもあることに驚かされる。

渡り鳥と言えば、新潟市に住んでおられた高校時代の恩師を訪ねた時、白鳥の大群が渡ってくる「瓢湖」という小さな湖に何度か案内してもらった。東京本社にいた1年間に上越新幹線を利用して何度新潟にお邪魔したのだろう。弥彦山にも登った、豪農館にも村上温泉にも連れて行ってもらった。
その恩師の訃報を受け取ったのが亡くなられて8カ月後という寂しいお別れになったのは、どうしても承服しかねるが、今となっては全てが無になったのだから仕方がない。便箋5枚に綴った手紙を添えて送り届けた岩国特産レンコンのお歳暮が、淋しい結末のもの言わぬ証人となった。くどいようだが、もう少し何かの形があったのではないか、葬儀に駆け付けられないなら亡くなられた直後にお線香でも送れたのではないか。全てが終わったこと、何を言っても愚痴になるが、若干16歳の出会いから66年の長い付き合いは何だったのか、口惜しいがこの話題は今宵で終わりとしよう。

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「金銀財宝ザックザク」

2024年12月17日 | ニュース・世相
                                       
そろそろ年末ジャンボ宝くじをを買わなくっちゃと少し気持ちに焦りを感じ始める季節だね~。実は昨年の暮れ、何かと忙しくてとうとう買いそびれた宝くじ。大晦日の昼のテレビが実に空しかったのを思い出している。今年は何が何でも買うぞ~~~。そうは言っても自分で買える枚数は知れたもの。それでも1等7億円に一応夢を馳せてみる。何故10億円とは言わないの。それはね、前後賞合わせたを連番クジは当たり外れが一瞬にして解ってしまうので面白くない、だから買わない。
その点バラを買うと、1枚1枚最後までチェックする楽しみがあるから。
さてあなたは連番派それともバラ派? まあどっちでもいいか。

ところで、金銀財宝なんてあるところにはあるもんだね~。一人の銀行員が4年間に20億円近い他人様の金品を盗めるシステムが現存するのだから、宝くじ買って億と言うお金を夢に見るなんて可愛いもんだね~。それにしてもお堅いはずの天下の大銀行がやることか、貧乏人が腹を立てている。1年に1度の監査人による収支監査はなされていないのか。バカやってんじゃないよ。

もしトラが現実になって、来年の就任以降の世界経済の見通しが立たなくて金融市場も右往左往。上がると予測した株価が軒並みマイナス傾向。せめて宝くじをと言う射幸心は募るばかり。世間一般がそういう状況の中で、何十億という他人様の財産が一人の女性管理職の手に収められ、貸金庫に預けた本人さえ財産の増減など変化に気が付かないという、公然とお天道様の下で繰り広げられる闇の世界。どう考えても納得がいかない。
パソコンの世界には本人しか知り得ないパスワードがあって、そのPWを変えられるのは本人だけと言うシステムがある時代に、金庫の開け閉めは合鍵で操作という。なんかあほらしくなってくる。それでもやっぱり年末ジャンボ宝くじ買うぞ~~。買わなきゃ始まらないもんね~。師走半ばのお怒りである。
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「今年最後の十六夜の月」

2024年12月16日 | 季節の移ろい・出来事
                                   
昨夜は今年最後の十五やお月さんが拝めると少し期待していた。
残念ながら朝からの予報通り、夜空には雲が広がり、何度も寒さを堪えてベランダに出ては見上げてはみたものの、雲のいずこに月やどるらん。満月の姿を見ないままに眠った。
そして今宵、夕方6時半を回ったころ、東の空にそれはそれは見事な十六夜のまん丸お月さん。今さらまん丸お月さんでもないでしょう、などと無粋なこと言わんといて。

1年の始まりの〇〇とか、今年最後の〇〇などという季節の節目の何かを感じることは、小生の中ではごく当たり前のことであり、少しでも時の流れや時の動きみたいなものを感じていたいという願望の現れなのかも。
カレンダーの日付の横に小さく書いてある旧暦と、大安・友引・仏滅などの六曜も少し意識している。これも一つの信心みたいなものだから、予測が当たることもあれば大外れのこともある。外れたからどうだこうだとまで追求しないのが流儀である。
軽~~い気持ちの六曜占いを、自分の行動に当てはめてみるといった程度のものではある。ただ、洋服や革靴など長期着用物の購入は、少なくとも仏滅は避ける。可能なら大安か友引を当てるといった程度の事。

今日も小学生相手のしめ飾り教室を終えた。暮れの風物詩ともいえるしめ飾りづくり。こういったことで、1年の節目を感じながら、年改まったらまたそれなりの何らかの目標を立てて、自身でムチを当てながら日々を刻んでいくのだろう。
たとえ少しでも期待をかけたものを得られるのは気持ちほっこり、得した気分にさせられる。
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「討ち入りは終わったが」

2024年12月15日 | 季節の移ろい・出来事
                                                  

「あこうろうし」とパソコン入力すると最初に変換されるのが「赤穂労使」である。早くも来年春闘の相場作りや、賃金体系の見直しが声高に叫ばれる時代背景をパソコンが敏感にキャッチしているのだろうか。
キーボードを打つこちらの気持ちは、この季節には三つ四つの赤穂義士伝が放映されないと年越し出来ないほどの盛況ぶりを見てきた。だからというわけでもないが、今じゃ自らの命をもってご政道を糺す一石を投じる、などという話は昔話になってしまった。
この頃のテレビと言えば「紅白歌合戦」の番宣がこれ見よがしに流される。

我が家の二階から見下ろす紅葉が一段と色濃さを増すと師走半ばを迎える。赤穂浪士の討ち入りに目を奪われる暇などないほど忙しくなるのが年賀状の準備である。
年賀状推進派、葉書による賀状をやめて電子媒体派、まるっきり辞めてしまう派、さまざまである。さてあなたはどっち派?
「あけおめ・ことよろ」の略号をラインで送るのもいいが、何とか今を元気に生かされている昭和10年代生まれにとっては、なかなか捨てがたい年に一度の消息交換「まだ生きてるよ~」と伝え合う掛け声みたいなものでなかなか縁が切れない。

1枚85円に値上がりした葉書に文句の一つも言いたくなるところをぐっとこらえて、年賀を届けた相手からの反応が楽しみである。こんな気持ちでいるのだから、年賀が届いたら返事が欲しいな、という気持ちがあるから、相手の方は段々面倒になったり億劫になったりして年賀状が嫌われるのかもしれないね。でもね「オッこいつからまた来たよなかなかしぶといねー」と言いながらでもいい、一言の返信は大切なのよ。ということで今もって粘っこい年賀状推進派である。

今年も驚くような、年賀状欠礼葉書も受け取ったが、それもこれも1年にたった一度ではあっても賀状交換をしていればこそ、残されたご家族から連絡が頂ける。知らなきゃそれでいいじゃないか、とのご意見もあろうが、クラス会・同窓会・OB会など幹事の癖がなかなか抜けきらない性癖もあるのかもね~。
でもさ、いつかは出したくても出せなくなる時が来る。間もなくかもしれない、その時が来るまでのお楽しみとしてもうちょっと頑張ってみたいね~。
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「小生、この1年の一字」

2024年12月14日 | 風物詩
   令和6年、今年の一字
       
この1年を一字で表すと。京都清水寺の貫主さんは「金」と揮毫された。
確かに、パリの地で掲げた金メダルラッシュ。まさしく表の金であり誇りに思う金・ゴールドである。同じ金でも手垢にまみれた、薄汚れた金もある。メダルラッシュのゴールドに対して政治資金規正法違反ラッシュのマネーである。同じ金と呼ばれても、そこには大きな差があるものだ。但し札束が薄汚れているわけではない。使いこなす人の利害が絡むとちょっとねー。

今一つ最低賃金にからむ所得の大幅アップ103万円問題もあった。金にまつわる一大政治課題である。どこかに溜まりこんでいるお金を所得アップという形で分配すれば、間違いなく街に笑顔があふれ、消費が伸び税収も増えて国情そのものが豊かに見える。私たちの世代は、働き盛りのころにそんな恩恵をこうむった記憶が強く残っている。ま、金の一字はおいといて。

さてあなたの一字は何でしょう。十人十色、百人百色。人それぞれ色んな思いがある。師走半ば、ゆっくり振り返って自分の一字を考えてみるのもいいね。
時分に当てはめてみると、何やかや忙しさに追われた「忙」が先ず頭に浮かぶ。趣味であれこれ認めた随筆やブログなど「認」、物騒な闇バイトによる強盗事件では「闇」と「怖」などなど。この一年を駆け抜けたそれぞれの思いが改めて浮かんでは消え消えては浮かぶ。

そしてトドのつまりは、中三の孫君の進路選択に対するジジの思いがある。
名前は悠雅だから「悠」の字も候補ではある。が、やはりこの時期同じ「ゆう」でも「勇」の字はジジのこの一年の一字である。野球が好きでたまらない野球の虫であるなら、勇気をもってその道に邁進すればいい。特待生として声が掛かったのなら、勇猛果敢にチャレンジしてその高校の星になる努力をしてほしい。何のことはない、今年の自分の一字を見つけるはずが結局、孫君とともに燃える来年に備えての一字になってしまったようだ。苦笑。
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「最初で最後の忘年会」

2024年12月13日 | 宴会・会食
            
早くから約束していた12月13日金曜日正午。自治会事務所集合。
お馴染みのグラウンドゴルフ仲間の忘年会。この頃では同級生の飲み会もゼロ、昔の仲間との飲み会ももう卒業といった塩梅で、このささやかな忘年会が、最初で最後になるかもしれない貴重な宴会である。

いつもの通り午前8時45分団地公園に集合。ラジオ体操第一に続けて軽い運動、それから始まるグラウンドゴルフ。今日は今年最後の大会と銘打って優勝・準優勝・ブービー賞など商品を買い込み、我が手作りによる賞状を授与する念のいった大会なのである。と本人は思っている。
大会が終わったところで、それぞれ自分で調達した食べ物・飲み物持参で自治会事務所に集合。会費はもちろん自分の飲食費実費だけ。

先ずは優勝ほか成績に合わせた、蘊蓄を織り込んだ賞状授与式。続いてお互いが勝手にこの1年の講評を述べ合う。本来は弁当持参などとしおらしい触れ込みだが、ところがどっこい、そう甘くはなくて缶ビール・お酒・熱いコーヒーに熱い豚汁、それにたらふくのデザートやお菓子類が持ち寄られてテーブル狭しの盛りだくさん。食べながら飲みながらしゃべりながらの大爆笑宴会は盛り上がる。おじいさん4人・おばあさん4人の計8人。それこその団地の会議室、クルマの必要なし、歩いて集まり歩いて帰る気軽さで飲みかつしゃべる。
あれだけ週に3回は顔を合わせている仲間なのになんでじゃろうと思うほど話題は尽きない。実に楽しかった。

ここんとこ、気持ちの沈む訃報続きで下を向く気分であったが、今日は救われた。ただまた食いすぎ飲み過ぎで、出っ張ったお腹にはごめんなさいである。たまにゃこんなこともあるさ、だから明日が生きられる。ということにしておこう。
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「二つとはない、切ない訃報」

2024年12月11日 | 思い出話
一瞬言葉を失う訃報を受け取った。まさか、こんなことってあるの?、耳を疑ったが夢でもなければうつつでもない、現実そのものであった。悲しい。

遠い思い出が次から次に浮かんでくる。どの思い出も大切な一コマとして脳裏に焼き付いているものばかり。
正式には67年前の高校入学式での出会いである。大学を卒業して4年目の、まだ完全に教師になりきっていない、やんちゃな新しい兄貴分のような人だった。その人が高校3年間の担任であったことが、小生の人生に大きな光を当ててもらった、そんな素晴らしい出会いであった。

出身は種子島で、国語の教師を多く輩出した東京の某大学出身。眉が濃くて鼻も高く黒いキリっとした瞳の、垢ぬけたとはこういう人をいうのか、と田舎の高校1年生の男女共通のあこがれの担任教師であった。他の教科はあまりできなかった小生だが、担任が国語専科であったことも幸いして、何とはなしに可愛がって頂いた、と今でも感謝している。
小生たちは普通科であったが、時代を反映して進学よりも就職志望の方が多かった。そんな中でも地元の某銀行の求人にいち早く受験のお膳立てをしてもらった。ただ、家が貧乏だったので、当時の銀行は採用してはくれなかった。我々が卒業して2年後に新潟に移られた。
そんな思い出に始まって、小生たちが無事定年退職を迎えたとき、昔の教え子3人が新潟に飛んで「定年退職報告旅行」に出かけたとき、新潟の料亭で飲んだ越乃寒梅は美味しかった。

その後ず~っとお付き合いが続き、特にお歳暮の時期は互いの産物を贈り贈っていただくようになった。数年前までは年に何度かお手紙のやり取りもあったし、奥様とも何度かお話しする機会もあった。手紙が段々疎遠になりとうとう年に一度お歳暮の贈答だけになっていた。というのも、段々病気が出たり弱りゆく経過を話し合うのが辛くなっていた部分はある。
この暮れも同じように岩国レンコンを数日前に発送した。その到着のお礼の電話の冒頭で、「〇〇が4月に亡くなりました」と思いもかけぬお話であった。
「あまりにも急なお別れで、私も動顛して具合が悪くなり、何をしていいかわからないままでした」という奥様の弱弱しい声には、「4月に教えて欲しかったです」とは言えなかった。
ただただ驚くばかり、先生とはもちろん、奥様とも世間話もしてきたじゃないですか、という言葉も飲み込んで、他にも申し上げたいことの全てを腹に納めて、悲しみのはけ口としてブログにぶつけています。

ごめんなさい、今日このブログを最後まで読まれた方は、大変お気の毒ですが、ちょっと運が悪かったとあきらめて頂いて、yattaro―の「二つとはない切ない訃報」の気持ちをちょっとだけご理解いただくわがままをお許しください。  合掌
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「最後の訃報連絡」

2024年12月10日 | つれづれ噺
そろそろ本格的に年賀状の準備に入ろうとした今日のこと。
少し遅めの訃報葉書が届いた。仲よし同級生からの一通で「長男〇〇が今年11月、58歳で永眠しました」と書かれていた。
この世で何が辛いかと聞かれたら答えに窮する。それは、想像に絶するほどの不幸を体験していないからではないかと思う。 

彼女にとって、この年齢になって自分たちより先に我が子の不幸を見送る立場に立つことの辛さは如何ばかりか。
もっとも、身内の誰が旅立っても深い悲しみに沈むのは確かであるが、親より先に逝く子の気持ちも測ることの出来ない重さを持っているのだろう。
中国の古いことわざに「親より先に旅立つことほど親不孝なことはない」と言われるが、確かに一理ある。子は親より長く生きて、親をちゃんと見送るのが中国古来の親に対する最高の尊敬を言い当てた子の道徳心であったのだろう。

とうぜん、年賀状を出す友の一人であったが、急遽変更。さてどんな言葉で気持ちを和らげられるのだろう。
そう云えば私の母は、自らが長生きした分二人の子供が先に旅立つ不孝を味わった。ただその分を私たち次男坊夫婦が母の命を全うさせられたことで、その悲しみを取り戻してあげられたのかな、などとちょっと思いあがっている。
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「よみがえるふる里の風景」

2024年12月08日 | いわくによいとこ
 
   
     
       
私の住んでいる岩国市南部の中心に、戦前の海軍病院から格上げされた近隣では特別な大病院として多くの患者を救った国立病院(通称、国病)があった。すぐ横には養老院と呼ばれた特別養護老人ホームも併設されていた。 市営バスの南部発着拠点として殷賑を極めた一時期もあった。

米軍岩国基地主要滑走路の沖合移設に伴う土砂を採取するため、市街地のほぼ中心に近い愛宕山一帯が新規開発された。その利便性の良い広大な新天地に国病が移転された。それから20数年、雑草に覆われ見る影もなくなった旧国病跡地に今、膨大な資材と建設機器が搬入され、大きなエンジン音を唸らせて槌音も高く、新たな生活拠点に生まれ変わろうとしている。

一つには福祉の拠点、科学の学習拠点、その他市民の憩いの場づくりなどの計画が発表されている。ようやく重い腰を上げてくれたか、と長い間放っておかれた恨み節も含めて、そのエンジン音を聞きながら、孫君の中学校校門の高台からはるか遠くを見下ろしている。
元々山林を切り開いた高低差の激しい地形に、継ぎ足し継ぎ足して作り上げた病舎だっただけに、国病になってからも迷路のような通路が続いた。そんな地形をどのように活用し、どんな近代的な空間を見せるのか、よみがえるふる里の風景を楽しみにしている。問題はこの施設完成まで、我が寿命が待ってくれるのだろうか。特に福祉の拠点と言われると、是非運用開始に立ち合いたいなどと欲張っているがさてどうだろう。 

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