晴れて小和田雅子さんは皇太子殿下の婚約者となり、外務省も「寿退社」出来ました。
雅子さんがお仕事をされていた北米2課では「コピー番長」と呼ばれていた雅子さんの退職に一抹の寂しさが。
「雅子さんは、よその課からコピーをしにやって来た人をよく追い返していたわね。自分のとこのコピー機を使いなさいよ!って。それがどんなに助かっていたか」
「でもちょっとほっ。いつお父様に告げ口されるかわからないから怖かった~~そういえば、オワって新人は駐車場を使ってはいけないのにお父様のコネで車で通っていたらしいわよ。婚約が決まって慌てて解約したらしいけど。何だかオワらしいわね」と言われました。
1993年2月23日 皇太子の誕生日に東宮御所へ
とにかく雅子さんについた定冠詞は「超エリート外交官」「ハーバード大・東大・オックスフォード大出の才媛」「3か国語、いや5か国語はペラペラ」というものでした。
でも、本当は
田園調布雙葉を退学になりアメリカに父親のコネを頼って留学
ハーバード大・・・ではなくラドクリフ大に父のコネで進学
卒論には複数の人間が手助けをした事が発覚
オックスフォード大へ国費留学するも一人だけ修士論文を完成できずに帰国
外務省への入省もお父様のコネ。外交官ではなくただの職員
雅子さんの英語はほぼスラング
だった事を知っていた国民はほとんどいませんでした。
あってはならない秘密だったからです。
1993年2月28日 田園調布雙葉を訪問
「ごめんなさい。オワ。私達、マスコミに色々話しちゃった」と謝る学友に雅子さんはやさしく「私、喋られて困る事なんかないから」とお笑いになりました。
学友はほっとした顔で「よかった。オワがスカートめくりしてた事とか、クラスメイトに「ねずかあさん」なんてあだ名つけて虐めてたことも、私の背中に消しゴムのかすをいれらり、非常ベル鳴らして叱られたり、ホスチアを盗み食いして、とうとう退学になった事も・・気にしないわよね」
雅子さんは「勿論」と笑いました。
なぜってそういう話題こそが一番皇太子を喜ばせたからでした。
1993年3月12日 雅子さんのお妃教育が始まる
8科目50時間に及びましたが美智子さまに比べると47時間も少なかったそうです。
またとても奇異な事でしたが、雅子さんは「神道」については英語のテキストを所望されました。
実は、「天照大神」を「てんてるだいじん」と読んでしまって大恥をかいた事があったのです。
英語ならストレートでわかりやすいんじゃないかしらと思いました。
幸せな雅子さんですが、またも本人が知らない所で軋轢が生まれていました。
マスコミは「納采の儀」を3月17日と発表していました。
ところが3月2日になって宮内庁は突然「納采の儀」は4月12日に延期と発表。
その理由は
美智子皇后が正田家と川嶋家の面々を呼び、雅子さんを紹介する会を開いた
しかし、他の宮家は一人も招かれず
皇太子妃決定から紹介まで一度も宮家に連絡がなかった事で宮家の方々は怒り心頭
実は美智子さまは入内以来、宮家の事が大嫌いでした。
その理由は、美智子様が商家の出でだった事に由来します。
正田家ではお父様が結婚には反対でした。あまりにも恐れ多かったので。
でも母の富美子さんは宮内庁の小泉信三らとはかりm将来的に正田家に栄光を」という約束で美智子さまを当時の皇太子と結婚させました。(しかしその約束は反故にされたと富美子さんは自ら週刊誌に語っています)
お金持ちですから衣装も調度品も立派なものを整えましたが、ただ一つないものがありました。それは「小袿」です。
旧皇族や旧華族の家には当然1着はあり、あるいは親戚同士で借りたり貸したりして結納や結婚式で使うもの。それが美智子さまはお持ちでなかったのです。
仕方なく、納采の儀には庶民と同じように振袖を着用しました。
でもこの時の屈辱は何年経っても忘れることが出来ず、いつかご自分が頂点に立った時に「仕返し」をと思っていらしたのです。
美智子さまは、あんなに可愛がっていらっしゃった紀子様の事も、秩父宮妃にとても大事にされている事を知ると急に厳しくなりました。
紀子様の御実家は学者であり、地元和歌山の名士であり、父方の祖母は会津藩士のお家柄。武士ですらない商家の出の美智子さまはその事にも傷ついていたのです。
でも小和田雅子さんなら、御実家に傷の一つ二つあってご自分が優位に立てる。
そう思い、何でも雅子さんの好きにさせます。
勿論、お妃教育も「最高学府をお出になっているのだもの」と短くされ、雅子さまが嫌がっていた「ブライダルチェック」も免除されました。
現宮家を全部無視するという事が、美智子様の最高の幸せなのでした。
1993年4月12日 納采の儀
この日は朝から緊張しっぱなしでした。
所作を最初から何度も繰り返したけど、結局、失敗してお母さまに「ほら」とつつかれてしまい、何だか嫌な気持ち。
この日、つけられた帯は美智子さまからお借りしたもの。紀子様も同様の帯を付けられました。
扇子を帯のど真ん中にさすと、ちょっと・・・と誰も教えてくれませんでした。
こんな写真が全世界に配信されてしまって・・・・お可哀想な雅子さん。
皇居に到着する頃には着物もしわしわに。それにしても金色の振袖をお選びになるとはさすがに雅子さんです。
お父様は中ロ大好きな方ですから、「黄色」が中国皇帝の色だとご存知だったのですね。
1993年4月17日 新潟へお墓参り。
泉性寺に小和田家のお墓があったのですが、何という事でしょう。
真新しい土台の上に古い石が乗っているではありませんか。
このようなお墓は誰も見た事がありませんでした。
通常、墓を移動する場合は「改葬許可証」を持ち、すっかり新しい墓を建てるものですが、このお墓の主である「小和田匡利」なる人物は、小和田恒氏の祖父である「小和田金吉」の父であるようなのですが、謎の人物で、小和田本家も「わからない」という事で、もしかして小和田家とは関係のない人の墓では?
そんな疑いが濃厚になってしまいました。
それというのも、新潟の小和田本家から「恒氏達は私達の一族ではない」といわれからです。
ではどうして「小和田」なのか?そのなぞは恒氏しか知りません。
ゆえに「3代前が不肖」と言われる所以です。
もし、明治の一番最初の戸籍までたどれるのなら4代前までわかり、尚且つ寺の過去帳を見ればさらにその前にも遡れます。
一体、小和田家とはどこから来た一族なのか。
たまたま新潟だったのか?
それとも・・・・・?
1993年4月28日 皇太后陛下に婚約の報告
あーかったるい・・・雅子さんはお疲れのようです。
マスコミは毎日家の前に張り付いて「一言」というけど、雅子さんは何を話したらいいかわかりません。
挨拶なんてしたくないし。笑うのも嫌。
だから、行きと帰りの写真は撮らせるけど、喋らない。
それをマスコミは「雅子さんの肉声がない」と宮内庁のせいにしてくれています。
肉声?マスコミに挨拶したり、笑ったりって何でそんな面倒な事をしなくちゃいけないの?こっちは時間を護る事で精一杯なのに。
みんな色々要求しすぎ。
雅子さんはそう思っていました。笑顔を作るだけでも大変なのに、喋れとはありえない。
雅子さんは少し後悔し始めていました。
いわゆるマリッジブルー状態だったのです。