ふぶきの部屋

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悠仁親王誕生への道   5

2024-08-28 07:00:00 | 皇室報道

 昭和34年2月6日の続き

菊池委員 宮内庁長官にお尋ねいたしますが、この皇太子殿下の御成婚につきまして諸説ふんぷんとして、国民はいろいろの誤解を抱いておるのでございます。

私は、皇太子が平民の娘をそのきさきとして選ばれたことを非常に喜んでおります。

平民であろうが新平民であろうが、粉屋の娘であろうが何であろうが差しつかえないと私は考えておるのであります。

こういう点において、私は欣快にたえないと考えておりますが、その婚約の過程においていろいろの謀略、策略が行われておるということが、最近の週刊雑誌やその他の刷りものにおいて世間に流布され、これによって国民が非常な疑惑を抱いて、国民の頭は割り切れないような感じになっておるのであります。この際それが事実であるかいなかを長官から明確に発表されて、そうして流説の真偽を明らかにして下さるならば、国民は晴れやかな気持になり得ると思うのであります。

私はもう時間がございませんので、端的にせんじ詰めて要点々々だけ申し上げますから、長官も簡単にお答えを願いたい。
 まず第一にお伺いしたいのは、この婚約の前に、美智子嬢は二十五人の見合いをしておられた。そして最後に波多野という青年と婚約、これを破棄して皇太子の方に振りかえたというようなことが流布されております。

週刊雑誌に出ておりますが、これは事実でありましょうかどうか。

片一方にそういう婚約がありながら、これを破棄して婚約をするということは、世俗、人情に反し、道義をじゅうりんし、将来の国民の象徴たるべき人を作り上げるにはふさわしいことではないと思うのでございます。

そういう婚約者があるかどうか、その点をお伺いいたしたい。波多野という青年です。

(意訳:自分としては皇太子妃が平民でも全然構わないが、彼女が25人もの人と見合いをし、その中で波多野という男性と婚約していた。にも関わらずそれを解消して皇太子妃に決まった。もしこれが本当なら大変な問題です。はっきりと答えて下さい)

宇佐美説明員 全くないものと考えます。

菊池委員 もう一つ重大なことは、この婚約を運ばれた方々、運動に当られた方々が全部カトリック教徒である。

前の田島長官もカトリック教徒であり、それから宇佐美長官もカトリック教徒であり、小泉信三氏もカトリック教徒であり、それからしゅうとになられる正田英三郎氏もカトリック教徒である。

それから最高裁判所長官の田中耕太郎氏もカトリック教徒である。

カトリック教徒の一連のからくりによってこの婚約が運ばれたという説が流布されておるが、これはいかがであるか、承わりたい。

(意訳:カトリック教徒の一連のからくりによってこの婚約が決まったという説が流れているが本当なのか)

宇佐美説明員 関係なさった方々がどういう宗教であるかということは、私調べたことはございませんので、責任を持ってお答えいたしかねますが、私がカトリック教徒であるなどということはとんでもない間違いであります。

ただ出身せられた聖心学院というのはカトリック系の学校でありますが、御本人は洗礼を受けておられない。

あるいはカトリックが将来皇室に対して何らか影響を持たないかという心配をせられた方々が世上あるということは聞いたことがございます。

しかし、もちろん美智子さんは洗礼を受けておられませんし、学校当局においても非常に慎重な態度をとっておられまして、この問題に対しては何ら御心配はないと考えるのでございます。

従って、過去においてこの問題についてカトリック系の陰謀があったなどということは全然根拠がございません。

(意訳:私個人はカトリックではない。美智子嬢は洗礼を受けてない。カトリックが皇室になんらかの影響を及ぼす事はないし、陰謀なんてとんでもない)

 

正田美智子入内決定のニュースは実はアメリカから先に発信されたものだった。

反対派の意見も昭和天皇の諫めによって、鳴りを潜め、正田美智子嬢は皇太子妃となった。

平安時代までの陰謀による妃選びのごとき、近代皇室においてこれだけの疑惑と陰謀説を持った皇太子妃は初めてだったと思う。

旧皇族も旧華族も無力である事を思い知らされた。

以後、皇太子夫妻と旧皇族・旧華族との縁は急速に消えていく。

 美智子妃は皇室の救世主だったのか

昭和34年4月10日に結婚の儀を執り行った皇太子夫妻は、翌2月23日、徳仁親王を得る。

皇太子妃が最初の出産で男子を儲けた事で国民は大喜び。

昭和天皇によって「浩宮徳仁」と名付けられた。生まれながらに天皇になる運命を持った子供だった。

これによって、皇室内での皇位継承問題は解決したかに見えた。

むしろ問題は美智子妃と回りの人達の事。

最初に女官長に就任した牧野純子女官長は、美智子妃に対して完璧な「妃」としての教育を施そうとした。

しかし、美智子妃はそれを真っ向から否定し、皇太子を味方につけて自分流を貫いていく。

一番はマスコミを利用した事で、

マスコミが好みそうな絵を提供する事で、「日本一のブルジョア一家」のイメージは固定化した。

これは生まれて半年目の浩宮を天皇に会わせた時の写真であるが、上が6月、下が7月、7月のこの微妙な空気感がわかるだろうか。昭和天皇も香淳皇后も笑っていない。

皇孫の誕生だというのに、少しも親しみを持っていないのだ。

これは予測でしかないけれど、美智子妃は長男を切り札にしていたのだと思う。決して祖父母には抱かせたりしない、自分だけがこの子の親とすることで地位の安泰を図ったとしか見えない。

最初は好意的だった入江侍従長も、お妃教育当たりから美智子嬢に関してはめんどうな気持ちを抱いていたようだ。

自分が疑問に思ったら徹底的に追求し、論破して行こうという姿勢に可愛げがないと思ったのかもしれない。

興奮するとすぐに倒れてしまう・・という癖もあり、中々難しい。

ゆえに、正田家と皇室の距離は縮まるどころか、より広く空く事になり、正田家の父はスキャンダルを恐れ夜遊びをやめ、母もまた地味な生活を送らざるを得なくなった。

これが恐らく第一の「約束違反」だったのかもしれない。

 

昭和39年9月30日、弟の義宮が津軽華子と結婚。

お見合い一回目ですでに決まったもの。津軽家は元大名家で徳川家とも近い。

義宮は元々体の都合により子供を得られないという事がわかっていたが、華子妃は「華が守ります」と言って入内した。

華子妃の入内を喜んだのは秩父・高松両宮妃で、親戚筋にあたるので話も弾んだ。そういう事がより美智子妃を孤独にさせたかもしれない。

 

余談であるけど、高円宮家の2女王がそうであったように、旧皇族や旧華族に属する家には代々の装束やティアラが保管されており、戦前からそれを貸したり借りたりするのが通例。

しかし、正田美智子はそういう家とは繋がりがないので、以後ティアラは入内時に新しく作られる事に。美智子妃は入内の時の皇太子妃の第一ティアラと、東京五輪を記念して作られた第二ティアラを持っている。

華子妃も複数持っている。しかし、作られたティアラは全て国家財産だ。

 

美智子妃は1965年11月30日に礼宮文仁親王を出産し、これで名実ともに皇太子妃としての地位を確立。

常陸宮家に子供が生まれない以上、皇統はここに集約されるのは運命だった。

ゆえに美智子妃はある意味、皇室の救世主だったと言える。

 

 

 

 

コメント (8)
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