浩宮と礼宮が成年に達する頃から、皇室、特に宮内庁はどのあたりまで「皇位継承の危機」を考えていやだろうか。
前述したように、宮内庁からは「皇室の藩屏」と呼ばれる職員が姿を消し、単なる国家公務員の所属の1部になってしまった。
職員は数年置きに配置換えになるから、その期間だけやり過ごせばいいのであって、積極的に「男子皇族の高齢化と減少」を憂うものはいなかった。
しかし、三笠宮家の3親王に男子が生まれなかった以上、危機はそこにあったのだ。
皇太子妃選びは誰の手に?
ここに1冊の本がある。
平成元年に出された小さな本で、誤植が多い代物だけど、ここにはマスコミ目線の「お妃選び」について書かれている。
皇太子妃選びに関しては皇后が「宮内庁長官、東宮大夫、にお願いしている」と発言。
しかし、本来は後宮を束ねる皇后が中心になって妃選びをしなければならなかったのではないか。
昭和58年、時の皇太子は浩宮の結婚について
「まず第一に本人がいいと思うこと、もう一つは皇族妃であるという公的な立場である。みんなが見ていいと思う人でなければと思う」
これが平成の天皇夫妻の核心の言葉だ。
本人がいいと思う
皆がみていいと思う人
この2つが果たしてピッタリ合う人はどれ程いるのだろうか。
天皇は自分が美智子皇后と出会ったのが偶然で、恋愛結婚だったと思っていたのかもしれないが、実際は仕組まれたものだった。
ただ、ご本人が気に入ったから成立したわけである。
日本国民の半分は反対と賛成に分かれて、非常に気まずい時代もあったし、大切しなければならない「皇族の血」を分けた人々との縁を切ってしまった事に後悔の念はなかったのか。
(細々と「菊栄親睦会」「島津家の会」に出席している事が罪滅ぼしなのかわからないけど)
イギリスではチャールズ皇太子とダイアナ妃の恋愛結婚がブームになっていたが、実際は、カミラを忘れられない皇太子に女王が「ダイアナと結婚せよ」と命じて成立。アンドリュー皇子とセーラ・ファーガソンの結婚も破綻。
女王は「国民が納得し若くて世継ぎを産める妃」を息子にあてがい、見事に2人の王子を儲けた。
しかし、日本の皇太子の場合、30歳になろうとしてもなお、妃候補は浮かんでは消えていく日々だった。
・伏見宣子・久邇晃子・北白川尚子・住友愛子・島津彩子・島津智子・坂本敦子・草刈智子・渋沢肇子・小林詔子・古河美佐子・北野裕子・清水美佳・三井智子・服部聡子・三井史子・豊田由美子・三田麻紀子
これだけの人をマスコミはリークしていた。
学習院常盤会も聖心女子大も含め、様々な大学へも候補を募っていたようだ。
この頃はマスコミが毎日のようにお妃候補を追いかけまわして、やんわり否定され、そしていつしか結婚してしまうというのが多かった。
事は将来の天皇の后である。
第一条件にすべきは
多産系であること
皇室の伝統としきたりを守る事が出来る人
社交性と賢さ
ではないかと思っていたが、そんな事はお構いなし。
「テニスコートの恋よもう一度」とばかり狂喜乱舞して、肝心の「世継ぎを産めるかどうか」に関しては全く考えられていなかった。
まさに男女雇用均等法時代にして、「DINKS」大流行り。一般庶民の間では子供を持たない夫婦や、内縁関係のまま一生を過ごす生き方もある。
皇室だけが「世継ぎ」と言ったら左翼が「差別」と言うに決まっているのだ。
しかし、なぜ皇太子が結婚しなければならないか。
それは次の時代の親王を得る為なのである。
小和田雅子の登場
マスコミに「皇太子が執心している女性がいる」と情報が出たのは昭和62年の秋だったらしい。
この時、小和田雅子嬢は24歳。
エレナ王女のパーティでは、青いドレスを着ていたらしい。
ハーバード大学をマグナムクラウデ賞を受賞して卒業、と同時に東大に学士入学し、2か月後には外務省試験に合格という「才媛」
浩宮を囲む小さな集まりには必ずいたし、高円宮邸に招かれてそこで会ったり。何よりお膳立てをしたのが賀陽政憲氏と書いてある。
「尋常でない付き合い方」だったらしい。
宮内庁は小和田雅子について調査を始めた。
結果は「不可」その理由は
母方の祖父がチッソの社長だった事
この点を昭和天皇は非常に嫌ったし、時の政治家後藤田氏も「皇室に筵旗が立つ」と言って反対。
なぜチッソの社長ではいけないのか。
チッソは、日本最大の公害病を出した会社で、熊本県水俣市のチッソの向上から排出された水銀によって汚染された魚などを摂取した住民が、中毒により亡くなったり病気を発症して苦しみ、今現在も訴訟は終わっていない。
小和田雅子の祖父、江頭豊氏は集団訴訟の場で「貧乏人が腐った魚を食べるからだ」と発言。水俣病を取材していたユージン・スミス氏を暴力団を使って半身不随に追い込んだ過去がある。
系図を辿れない家だったこと
小和田家は、新潟県村上藩の下級藩士の出と言われているが、実は、本家の小和田家からは「関係なし」と言われている。3代前が不肖の家柄でどうも、半島から渡って来たのではないかと言われている。
それを調べようとしたら、「部落同盟」に抗議されてやめた経緯がある。
さらに言えば、雅子嬢の母は一人娘で、子供は全員女子だった事も付け加える。
この本では、宮内庁は消極姿勢だったにも関わらず東宮は積極的に小和田家にアプローチしたと書かれている。
平成元年の4月には何等かの意向が伝えられたが、雅子嬢は7月からイギリスへ留学する道を選ぶ。
小和田雅子嬢は学歴以外に自慢する所は全くなかった。
しかし、なぜ東宮はこんなにも執着したのか。
そこで出て来る「浩宮 アルザスの恋」だ。
これによれば徳仁親王イギリス留学中の昭和58年にフランスへスキー旅行に出かけた。この時、ひそかに見合いが設定されており、その相手が小和田雅子だったというのだ。
いわゆる「ハニートラップ」にかかったと言う事。
そこで本当に1夜の恋が成就したかはわからない。
けれど、徳仁親王の執着をよそに、雅子はあっさりとイギリス留学へ旅立つ。
彼女からすれば、徳仁親王は数多い男友達の一人で、誘われればおいしいものが食べられるので断らない。「好奇心」と本人は言ってるが、その程度の認識だったようだ。
天皇皇后の心では即位の礼に皇太子妃は欠かせないと思っていたのかもしれない。息子がそんなに執着するならと思ったかもしれない。
しかし、昭和天皇が生きている間は認められることがなかった。
その代わりに登場してきたのが久邇晃子嬢。
香淳皇后の実家である久邇家の出で、常盤会も推し宮内庁も推す、名家の出の女性だった。しかし、皇太子は3回会って結局は断る事となった。
それまでは女性側から断られて来たのに、久邇家は、一旦は覚悟を決め晃子嬢も入内を了承していたのに、皇太子は顔が気に入らないといい、皇后は「あちらの方(小和田)がお出来になるから」と断ったらしい。
久邇家は多産系であるし男子の数も多い。いわゆる「男系男子」に恵まれた家系だった。しかし、ここで皇后の「旧皇族嫌い」が出たのと、皇太子の面食いが表面化。
全く持って「皇統の危機」を意識していない行動だった。
一旦は消えたお妃候補だった小和田雅子が再び登場するのは平成になってから。
もはや皇太子の回りには一人の女性も残ってなかった。