ふぶきの部屋

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悠仁親王誕生への道 7

2024-08-30 07:00:00 | 皇室報道

 国民は美智子妃の美しさに騙され続けた

前述したように、昭和時代後半には男子皇族は皇太子と除き8人いた。

その為、公に「将来の皇位継承者がいなくなる」危機感は薄かったと見える。

私達が生きた昭和時代、皇室の話題と言ったらもっぱら

 軽井沢での皇太子一家の華やかな生活

 毎日のように福祉施設を訪問する皇太子夫妻

 美しい美智子妃ファッション

今では考えられないが、毎週ワイドショーでは皇族のファッションチェックが行われており、美智子妃の着る着物や洋服を誉め讃えていた。

そういう事が平成で無くなったのは雅子妃が入内してからというもの、その服装があまりに酷くて似合わず、苦言ばかり呈されていたから。

時はバブル時代に向かっていく時で、皇族がどんな派手な衣装で出て来ようと誰も文句を言わなかったし、美智子妃の人気は圧倒的だった。

美智子の

・肩パッドを入れたケープ

・皿と呼ばれる小さな帽子

・両袖で色が変わる、あるいはぼかしを入れる

等々、賢い彼女の日本の伝統と融合させたファッションは世界で認められた。

香淳皇后が骨折を機に表舞台から降りると、その露出度はさらに高まった。

と、同時に国民を味方につけた彼女は皇室内での権力を把握していく。

 

 男系男子減少の危機感の希薄さ

勿論、10年先、20年先を考えると皇太子家にしか男系男子がいないと言う事は十分に危機感を持つべきだったと思う。

しかし、旧皇族復帰論が出ては消える。

美智子妃の旧皇族、旧華族嫌いは有名になっており、それら「上流」との付き合いはほぼゼロになっていた。

さらに宮内庁のメンバーにも名門からただの公務員という変化が現れ、皇族の生き方、過ごし方、皇位継承問題は当事者だけの問題になったのだった。

それは昭和天皇というカリスマがいなくなると如実に表れる。

あまりにも強い美智子妃・美智子皇后の権力の前では、何が正しくて何が間違っているか、皇族はどうあるべきかの規範が「美智子イズム」になってしまったのだ。

 筆頭宮家である常陸宮夫妻をないがしろにする

 常陸宮家は昭和39年から筆頭宮家であるし、明仁天皇の弟である。しかし、両者が仲の良いシーンは見た事がない。平成になると御用邸の使用も許されず、さらに常陸宮の古稀の祝いも天皇の都合で延期されたままになる。

 秩父・高松・三笠宮家からそっぽをむかれる

 個人的には礼宮は高松宮家で「有栖流」の書を学び、妃は紀宮をお気に入りにしていたけど、それに対して東宮家がよその国の王家のように親しくしたというシーンはない。

平成を振り返ってみても両陛下の「強い気持ち」のほとんどは美智子皇后の思いだったのではないかと。

伝統は大切だが人を傷つけるものでもある」という名言もあり、自分の中での皇室はかくあるべきとばかり、演出家と主役を兼ねて「新しい開かれた皇室」を体現してみせた。

しかし、その結果、皮肉な事に国民から皇室への関心を薄れさせてしまった。若い世代へのバトンが渡されなかったのだ。

いや、秋篠宮家創設時に一度、国民は皇室に関心を持ち、その機運は高まったのだが、美智子妃の長男への偏愛がそれを断ち切ってしまった。

 

 浩宮と礼宮

浩宮は将来天皇になるので甘く育て、礼宮は将来気楽な立場になるので厳しく育てる」方針は一貫していた。

生まれた時から「将来の天皇」として大事に育てられた浩宮は、成績が悪い事すら「おちゃめ」な一面として報道され、クラシックとヴィオラ、登山が好きなごく普通の背の低い青年として成年になった。

学習院大学文学部史学科を卒業、さらに大学院で中世の交通史を学び、オックスフォード大学に留学してテムズ河の水運史に関して研究。

文科系なのは間違いないが、研究には一貫性がない。

偉大な祖父と優しい両親の元で青春を謳歌。

特に酒豪として知られ、礼宮には「ザルです」と言われている程の酒好き。

天皇や皇族は自分の好みなどは発言しないのが通例だったにも関わらず、彼は23歳の時に「歌手では柏原芳恵さんが好きです。「春なのに」はいい曲ですね」と言ってしまい、その後、コンサートに招かれる。

 皇族の発する言葉が影響力を持つという事についての認識の甘さが漂う。

さらにオックスフォードからの帰り、アメリカを回ってレーガン大統領に会い、大好きなブルックシールズとも会う。

それだけではない。ブルック・シールズ来日のおりには、東宮御所に呼んでしまったのである。

かなり自分の欲望には素直というか、有言実行の人ともいえる。

彼が成年を迎えた頃からお妃が誰になるかと言う事は話題になったが、実際に浩宮の回りに女性の影は0だった。

彼自身、自分の妻が将来の皇后になると言う事をどれ程認識していたかは怪しい。むしろ、どのセリフも全てふわふわとした理想でしかなく、言わされた感が強い。

昭和60年

微妙な問題ですが、結婚相手を一方的に決められるのは困りますが、周囲の意見も尊重する必要はあると思います」

「結婚する相手として、自分とまず価値観が同じである人が望ましいと思います。具体的に言えば美しい物をみた時にそれを美しい物として評価できる。大切なものだったら大切なものとしてそれを大切に扱う。それから贅沢を避ける意味において、金銭感覚が自分と同じ人がいいと思います。例えばニューヨークのティファニーに行ってあれやこれやものを買うようでは困ると

浩宮自身が語った「理想の女性への注文」だが、今思うと「教わった感」が強くて本当に彼自身が考えた言葉なのか非常に疑問だ。

またこんな短い言葉の中にも失言が見える。

「周囲の意見も尊重する必要はあると思います」

この言葉は、女性関係が豊富な男性が言うなら説得力があるが、この時点で付き合った事のある女性がいなかった人が偉そうに上から目線にしか見えない。

また「ティファニー云々」のように具体的なブランド名を上げながら言うというのは相手に対して失礼である。

浩宮がそこまで倹約家だったなんて聞いた事がないし、そもそも自分が置かれている環境が「贅沢でない」となぜ言えるのかという点。

それを偉そうに「あれやこれや買う人では困る」

マスコミは大々的に好意的にこの発言を広めたけど、ティファニーにとってはいい迷惑で、美智子妃が尻拭いの為にティファニー製品を自ら買ったと言われている。

後年、全く正反対の女性と結婚する羽目になるとは、この時の浩宮は思っていなかったろう。

浩宮の最大の欠点は「世間知らずの頂点」にいるようなところで、しかし、この頃はまだその「世間知らず」さが品のよさと誰もが思っていたのだった。

礼宮程、生まれてから今日まで「誹謗中傷」にさらされた宮はいないと思う。

誰が何の目的でそうしたのかわからない。

もしかすると6歳年上の兄よりも優秀であったことが誰かの勘にさわったとしか思えない。

 礼宮は美智子妃の子ではない

これは随分小さい頃から言われてきた。「皇太子と加茂さくらの子」というのが最も大きな噂で、なぜそんな噂が出て来たのかわからない。

実際、礼宮は小さい頃から体格がよくて兄の身長をすぐに追い越し、東宮家で一番背が高い皇族になった。

生物や動物が大好きで、彼の回りには様々な動物がいた。

 兄は賢いが弟はやんちゃ

礼宮は運動にも優れていて、テニスの腕は相当なもの。

常に学友らに囲まれていて、サングラスや金のブレスレット、ひげなどおしゃれでかっこいい宮様だった。

そういうちょっと派手めな所が「やんちゃ」と称されたり批判されたりしたが、本人は至っておおらかだった。

1984年学習院大学法学部政治学科に入学。本当は生物学を勉強したかったが、当時は学習院以外への進学は許されなかった。

しかし、礼宮は落ち込まずに入学するなり自分でサークルを立ち上げる。

「自然文化史研究会」は紀宮の夫となる黒田氏や川島紀子嬢も入ってたもので、全国を回ってその地方の文化を学ぶというサークル。いわゆる「国見」である。

男女に関わらず志を共にする人達と日本中の土地を回るのはきっと楽しかったろうと思う。

その傍ら、生物への夢を忘れてはいず、進化生物学研究所で家禽類研究を始める。

そしてこの頃、川嶋紀子嬢と出会う。

おっとりとした浩宮の青春に比べると、礼宮は自分で自分の道を切り開くタイプで行動力がある。それがなお一層、ある種には嫌われたのかもしれない。

1988年、学習院大学を卒業と同時に日本動物園水族館協会総裁に。そしてオックスフォード大学、セント・ジョンズカレッジに留学し魚類の分類学を専攻。

「ナマズの宮様」と呼ばれるようになったのはこの頃だ。

昭和60年

結婚は遅くならない方がいいと考えています。30歳より前にしたいですよね。タイプですか。具体的にでしょうか。なかなか難しいですね。身近にいいと思う人はいますし、例えばテレビに出ている新珠三千代さんとか。

最近の若い人はあまり知らないので。(浩宮の相手にはどんな人がいい?)

浩宮がいいと思った人がいいんじゃないでしょうか。二人であまりそういう話はしませんね

理想の女性像はあまり考えた事がありません。結婚観についても今の所特別な考えは持っていません。(好きなタイプは)会話をしていて楽しいというのが一つの条件でしょうね。浩宮が永遠に意中の人が現れなければ先に結婚しなければしょうがないですね

私達は最初、理想のタイプで「新珠三千代」という名を出された時、大いに驚いたもので、それはマスコミもそうだったらしく「殿下、随分年上の。美智子さまと同じくらい」と苦笑した程。

でも浩宮より6歳も年下なのに「最近の若い人は知らない」と言い切ってしまうあたりが「世俗にまみれていない」感じがした。

マスコミはこの事ばかり取り上げて「身近にいいと思う人もいる」という発言はスルーしてたけど、実はこの頃、マスコミ内でも川嶋紀子の名前は知られていたのだった。

しかし、「学者の娘で官舎住まい」と言う事で勝手に「これはダメだろう」と思っていたのも事実。

女遊びのスキャンダルとして追いかけていた面はあったかもしれないが、弟が兄より先に結婚する事は当時はあまり考えられず(特に皇室では)とにかく目先の浩宮の結婚の方が大事だったのである。

 

しかし、礼宮は後年、川嶋紀子との婚約記者会見で「とにかく話していて楽しい」と言っている。最初から紀子様を念頭に入れていたというのもあるけど、しっかり自分なりの「妃像」を描いた結果が今に繋がっているのだと思う。

 

俗に賢兄愚弟と言われ、その象徴のように浩宮と礼宮は比較されて来たのだが、大学卒業後の総裁職の多さは、いかに礼宮が専門分野に長けていて、熱心に公務に取り組むタイプか、わかる人にはわかっていたのである。

 

コメント (12)
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