悠仁親王の誕生は、皇室にとって奇跡であり、運命的な事だと思っています。
誕生された時の感動を思い出すと、今でも体が震えるような気がしますし。
長らく皇室を覆っていた「皇位継承者」という問題について、国民として最高に喜ばしい出来事でした。
今思うと、悠仁親王の誕生は神様に幾重にも仕掛けられた試練の道であり、皇祖神の恩恵のようにも思います。
それ程、あの当時の皇室というのはぐだぐだな状態でした。
しかし、今はそれ以上になってしまった。
この最悪の皇室を救うのは今年成年になる悠仁親王だけであり、その為に成人年齢が18歳になったのかと錯覚する程です。
悠仁親王の誕生がどのように運命的であり、奇跡だったか、振り返っていきたいと思います。
大正天皇の奇跡
戦後、天皇は現人神ではない「人間宣言」をしました。
それによって、皇室を取り巻く環境も大きく変わりました。
近代皇室において、最初の奇跡は大正天皇の誕生であり、その大正天皇の妃選びでした。
大正天皇の実母は柳原愛子という宮中の女官です。
無論華族の出であり、成婚後5年経過しても子に恵まれなかった明治天皇の側室として選ばれた何人かの中の一人。3人のお子に恵まれるも成人出来たのは嘉仁親王、後の大正天皇のみでした。
大正天皇は生まれつき体が弱く、明治天皇の英断により西洋医学を取入れ、ようやく命を繋ぐことが出来ました。
何度も病にかかっては重体を繰り返す東宮に明治天皇や昭憲皇太后の心配はいかばかりだったかと思います。
ですから、大正天皇のいわゆる「教育」は普通の人よりもかなり遅れていました。
歩く事が出来るようになったのが3歳ですから、仕方ない事ですよね。
だからといって、勉強が出来るとかできないとかそういう事に言及する側近はいません。
大事なのはこの親王がきちんと成人して後継ぎを有する事が出来るか・・だけです。
明治天皇は維新に乗じて、還俗した法親王達が宮家を創設する事に積極的にかかわりました。
体の弱い嘉仁親王の行く末を案じたからでしょう。
世襲宮家の伏見・閑院・桂・有栖川に加えて、久邇・山階・梨本などの宮家の創設を認め、竹田宮家(昌子内親王の嫁ぎ先で創設)
北白川宮家(房子内親王の嫁ぎ先で創設)朝香宮家(允子内親王の嫁ぎ先)東久邇宮家(聡子内親王の嫁ぎ先で創設)などを作り、全部11宮家が誕生。
これで万が一の時も大丈夫と言う事。
皇位継承というものを最も大事に思うのは天皇の仕事であり、務めであり、義務です。
明治天皇は時に伊藤博文に反対されながらも、盤石な皇室を作る為に努力しました。
嘉仁親王のお妃選びは12歳の頃から始まり、姉君達の遊び相手としてお妃候補が呼ばれました。その中で伏見宮禎子女王が最もふさわしいとして、内定となります。
しかし、ここで神の手が動きます。
禎子内親王の父は伏見宮貞愛親王、母は側室。側室の間には禎子女王の他、跡取りとなる博恭王が生まれています。
貞愛親王の正室は有栖川宮家の利子女王で統合失調症を患っていました。
親王を二人産むも二人とも母と同じ病で早世。
そんな中で禎子女王が東宮妃に内定し、有栖川宮家としては色々と不満があったようです。
その意向があったのか、突如、「禎子女王には肺疾患がある」という理由で内廷が取り消されました。
そして新たに東宮妃になったのが九条節子、後の貞明皇后です。
私が神の手と言ったのは、禎子女王は婚約解消後、山内家に嫁ぎなぎなたの名手として名を馳せ、80歳まで長生きます。しかし子はありませんでした。
一方「体が丈夫」を理由に東宮妃となった節子妃は4人の親王を産み、皇位継承の心配をなくしました。
ほんの少しの運命の違いで、親王が生まれるか生まれないか・・・これこそ本当に神様しか知らない事ですね。
明治天皇は側室との間に15人の子をもうけましたが、成人したのは4人の内親王と嘉仁親王のみ。決して好色というのではなく、義務に忠実であったと言う事。
早世したお子の喪に立ち会う事もなく巡行を続けていたので、葬儀その他は昭憲皇太后が仕切ります。これが皇后の役割なのです。
二人とも次世代をどうやって生み出すか、繋げるかという事について真剣にお考えになっていたのでしょう。
明治天皇自身、孝明天皇の唯一の男系男子でしたので、その思いは強かった筈です。
努力の末に孫の代までは繋がったと言う事です。