ふぶきの部屋

皇室問題を中心に、政治から宝塚まで。
毎日更新しています。

悠仁親王誕生への道   3

2024-08-23 07:00:00 | 皇室報道

私はヴァイニング夫人が皇太子を洗脳したなどとは書いていません。

ただ、根本的なキリスト教と神道の違いはあると思います。

 キリスト教 → 偶像崇拝しない。教義がある。神の前ではみな平等。

         絶対王政では「王権神授説」となり、王位は神から授かった事になっていますよね。

 神道 → 天照大神を頂点とし、天皇はその子孫として尊い血筋である。

       自然界、いたる処に神が宿る。教義はない。

ヴァイニング夫人は恐らく、永久に「天皇家の血筋による尊さ」を理解出来なかったと思うし、時の皇太子は「果たして天皇という存在は正当なのか」と真面目に考えたでしょう。そういう事を言いたかったのです。

  昭和天皇の誤算

 昭和天皇の昭和天皇は戦後、皇太子と共に生活出来て幸せだったようで。入浴の様子を見に来て「おお入ってるね」とおっしゃったり、「東宮ちゃんは人気者だね」と嬉しそうだったり。

こんな笑顔の時もあった。

けれど、時が経つに連れ、世間では「天皇の戦争犯罪」について言及する書物が出回り始めま。「反天皇制」を堂々と掲げる人達も出て来ました。

今までは現人神だったけど、人間宣言したのだから好き勝手に批判出来るというわけだ。

と、同時に週刊誌が台頭し皇太子を始め、皇族方の事を好きに取材して、書き始める。

昭和の友納尚子である小山いと子などは、香淳皇后について「あたかも見て来たような」本を皇太子のお妃問題は、まるでアイドルの結婚のように。

昭和天皇は戦争についてあれこれ語らなかった。

自分が悪かったとも悪くなかったとも。それが皇室を守る唯一の事だったから。

しかし、皇太子は次第に「何も語らない父天皇」に疑問を抱き始めたのではないかと。

昭和天皇は皇太子が歴代の天皇のように、自分を制御し、一切を語らず公にのみ存在する者となるように望んでいただろうが、皇太子ははそうはならなかった。

学習院時代、こっそり皇居を抜け出して学友と銀ブラした事件は有名で、やんちゃといえば聞こえがいいけれど、どこかで「一般人と同じように楽しみたい」気持ちが出て来たのだと思う。

それが昭和天皇からすると誤算だったといえる。

また、昭和28年、弟の秩父宮が亡くなり、高松宮家には子が生まれず、唯一男子を授かった三笠宮家では殿下自身が社会主義者ではないかと疑いをかけられ「赤い宮様」と呼ばれるようになった。

なかなか頭の痛い問題だった。

 

 小泉信三と入江相政

皇太子のお妃選びが始まったのは、成年式を終えた直後から。

近代皇室において、東宮妃は五摂家(近衛・九条・一条・鷹司・二条)か、皇族から迎えるのがしきたりになった。

当然、皇太子妃もこれらの家から選ばれる、つまり学習院の女子同窓会である常盤会メンバーが選出するものと思われていた。

当時、最有力候補が北白川肇子嬢。世が世ならば北白川宮家の姫である。

家柄的にも常盤会的にももっとも有力で誇れるお妃候補だった。

しかし、これで決まるか・・・というその時、突如登場したのが正田美智子嬢である。

正田美智子が皇太子妃候補になった背景には、東宮御教育参与であった小泉信三と、入江相政侍従長の影の暗躍があった。

この二人の共通点は「クリスチャン」だった事。

入江相政は藤原定家から始まる冷泉家の血筋で、昭和天皇の侍従を長く勤めていた。

昭和の最後の方はほぼ「支配」していたと言っていい。

二人がなぜキリスト教徒だったのかは知らない。

けれど、いわゆる「宮中改革派」であったことは間違いない。

つまり、

 伝統としきたりを破壊

 開かれた皇室と言う名の庶民的な皇室を作る

という点で思想が共通していた。昭和天皇は戦後、沈黙を貫きほぼ、この二人が皇太子妃選びに積極的に参加しても、何も言えない立場だったし、まさかそこに「皇室破壊の芽」を植え付けようと画策していたとは思いもしなかっただろう。

 

 

コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする