ナルちゃん憲法
戦前は、一定期間天皇皇后との同居を経て、親王も内親王も別に暮らして教育を受けるしきたりだった。
しかし、皇太子夫妻は最初から自分達で子供を育てることを強調。
あまりに強調しすぎて昭和天皇からは「私達の時も最初から別居はしてない」と言わしめる程だった。
浩宮徳仁親王に関して有名なのは「ナルちゃん憲法」
浩宮の教育を女官任せにせず、スポック博士の育児書を参考に自分流に育てることを選択。
しかし生後7か月の時に外国への訪問が決まり、面倒を見る女官への書置きが「ナルちゃん憲法」と呼ばれた。
ちゃんとお聞きにならなきゃいけませんと叱ってやってくださいね。
コップにすこしだけ(牛乳を)ビンから注ぎ、「『ナーイ』にしてちょうだい」と言うと一生懸命飲んで「ナーイ」と見せてくれます。またすこし足します。
一日に一回くらいはしっかり抱いてあげてください。愛情を示すためです。
これだけではないけど、とにかく非常に内容が細かく、他人を信用してない妃の内面が透けて見える。
記者会見では皇太子が
「なるちゃんとか、そんな呼び方をしているけど通じてない」と言うと、すかさず横から「通じますよ」と皇太子妃が反論。
こういう物言いが妃らしくないのだが、美智子妃にとってほんの少しの子供への否定的言葉は自分への否定と思って嫌だったのだろうと思う。
一方の礼宮の場合は憲法は存在せず、
とにかく明るく闊達で
小さい頃から生物に興味を持つ理系の少年だった。
皇太子夫妻は
「浩宮は将来天皇になるのだから甘くして、礼宮は将来気楽な立場になるから厳しく教育する」と言った。
本当は逆の筈なのに、誰もこの言葉に不思議さを覚えない時代だった。
浩宮は美智子妃にとって切り札だったから、何が何でも優秀でなければならなかった。なぜなら美智子妃が誇れることは「学歴」以外にはなかったからだ。
皇統は盤石にあらず
この当時、子供に恵まれたのは東宮家と三笠宮家のみで、三笠宮寛仁親王は将来、三笠宮家を継ぐ立場だったので「寛仁親王」としか呼ばれず。
昭和47年、16歳の麻生信子を見初めたが、結婚は55年まで待つ。
二人の間には彬子女王と瑤子女王の女子しか生まれず。
1982年に皇籍離脱騒動を起こして昭和天皇を困らせる。後に癌を患い、さらにアルコール依存症を発症し、2012年死去。
桂宮宜仁親王は学習院時代に同級生から「皇族だから」という理由でいじめを受け、心が傷つき、人が「変わってしまった」らしい。
高松宮を慕っていたのでその公務を引き継ぎつつ、本人は結婚を望まなかったため、1988年単独で桂宮家を創設。
40歳の時脳挫傷を起こし、それがきっかけで入退院を繰り返し、2014年死去。
3男、憲仁親王は1984年に鳥取久子と結婚。高円宮家を創設。
二人の間には承子女王・典子女王・絢子女王の3人が生まれる。
2002年、死去。
つまり、昭和の終わりにはすでに「皇位継承問題」が再び頭をもたげてきたのだった。